2008年02月24日 02:42
丁度アニメCLANNAD18話が終了した段階で、今週は番組休止なので、原作CLANNADを踏まえてアニメCLANNADを見る際の注意点というか、押さえておきたいポイントをまとめておきたいと思う。とは言っても、やはりそんな大仰な訳ではなくて、只の私的メモ程度かもしれないし、その1とか書いておきながら今回で終了するかもしれない。そして、例によってネタバレ満載である。とにかく、今回のキーワードは「家族」である。
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最初に、ここに誰もが罠に陥るだろう二項対立を置いておく。古河家(善)と岡崎家(悪)の二項対立だ。アニメ版CLANNADでは今のところそう描かれているし(直幸ルートの構成力次第では二項対立が解消されないかもしれない)、原作も前半部分そう描かれていた。だが、この二項対立は誤りである。
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直幸は朋也にとって悪だったが、アフターストーリー後半、汐との軋轢を修復すると、ほぼ同時に直幸との軋轢を修復する。何故このようなシンクロニシティーが起こるのか。それは、(1)直幸と朋也、(2)朋也と汐はそれぞれ親子関係だが、単に血縁にあるというだけではなく、前者と後者の図式は驚くほど酷似しているからである。
(1)直幸は朋也のことを愛しているが、父一人で育ててきた満身創痍と、朋也の肩を傷付けてしまった自責の念とでコミュニケーションが上手くいかない。
(2)朋也は汐のことを愛しているが、渚を失った傷心から立ち直れず、長期間古河家に汐を預けていたことで汐と上手く意思の疎通が出来ない。
(1)朋也は自分を育ててくれた故に果ててしまい、怠惰になり、自分を他人のように扱う父が許せないが、それは愛情の裏返しである。
(2)汐は生まれて直ぐに古河家に預けられ、親でありながらも育児を放棄している父を遠い存在のように感じるが、父の胸で泣きたいと願う。
花畑で汐の愛を知った朋也は丘の上では直幸の愛を知り、直幸を愛していた自分に気づく。そして、父となった朋也は嘗て父となった直幸と同じように、丘の上で我が子を父一人で愛し育てることを誓う。その後、長い間帰らなかった岡崎家に帰省した朋也はようやく直幸との間隙を修復することが出来る。(このときの直幸の第一声はとても感慨深いが割愛する)
さて、何故このように連鎖的に関係を修復できたのかを俺の言葉で書くと、「気づき」を得たからである。原作CLANNAD作中で朋也が「普遍的な幸せは無い」と言うシーンがあるが、他人が幸せを定義するのでなければ誰が自身の幸せを決めるのか。それは、自分自身に他ならない。では、愛されているのに愛されていないと感じる者が、愛を得て幸せになるにはどうすればいいのか。そう、気づきである。幸せになるには、気づきを得るしかないのだ。(現状に満足すること)
話の主旨とは少しずれるが、小さなてのひらの歌詞にあるように、
小さな手にも いつからか 僕ら追い越してく強さ
CLANNADの主人公は言うまでもなくアフターストーリー前半までは朋也であるが、後半汐の誕生からは主人公は汐に入れ替わると俺は考える。(もっと言えば渚の妊娠発覚から)何故なら、それまでは朋也中心に動いていたストーリーが、汐の誕生によって汐中心に移行していくからだ。
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では、古河家を書することにする。俺は前々から古河家が現実にはない嘘家族だと言われること(ようするに、あんな家族ねーよ批判)に疑問を持っていた。でも、そう言いながらも僕達私達は古河家を良き家族だと認識する。それは何故だろうか。
1950年代後半から急速に幸せな団地家族というイメージが一般化する。その一方、それ以前には無かった専業主婦と呼ばれる、子育てに専念する母親という存在も、一般化してくる。団地化の要因の一つを挙げると、1950年代後半、テレビが普及していき、特にアメリカのテレビドラマを通じて、一般の人達は幸せな家族幻想を抱いた。それは、新しいタイプの父と母と子の団地家族という生きる動機付けであり、そういう家族とはどういうものかを擬似的に体験させるのである。この幻想を崩壊させるのが70年代後半である。1978年、開成高校生絞殺事件(親が息子を殺す)が起こり、二年後には逆に親を殺す神奈川金属バット両親殺害事件がある。その間にはイエスの方舟事件(家庭を捨てて逃げる)が起こる。一方、その只中で共通一次試験が始まり、急速に塾通いが増える。この過渡期、結婚への夢が消え、家族の幻想が急速に失われていく。しかし、家族幻想をまだ持っている人間はそれを糊塗しようとするが、いろいろなところに歪みが出てしまい、家庭内暴力などに表出してくる。
ここまで書けばもう分かると思うが、1950年代後半の良き家族がCLANNADで描かれている古河家ではないだろうか。そして、70年代後半から続く、家族の夢の崩壊があんな家族ねーよ批判や、所謂嘘家族と呼ばれる所以なのではないだろうか。(この思想のモチーフが岡崎家だとは書かない)
だが、1950年代後半の良き家族とCLANNADの古河家は似て非なるものである。ここでキーワードを挙げる。それは「専業主婦」である。1950年代後半から70年代後半までの幸せな団地家族という夢の共通前提があった時代は、子供にとって何が良いのか自明であったが、現代になると、何が子供のためなのか自明ではない。バブルが崩壊した1991年以前に、勉強して、良い大学に入って、良い会社に入れば、幸せになるという教育をされてきた子供は、完全に割を食ってしまった。この現代において、希薄な時間を潰すために専業主婦がやる、子供に対して生き方の見本を示す行為は、何かと問題が多いのである。
ここで、古河家は1950年代後半の良い家族のモチーフを反復してはいるが、渚の母古河早苗は専業主婦ではない。時にはパン屋の手伝い、時には塾の講師をやっている。一般家庭なら何の問題も無いように思えるが、ここで重要なのが、渚の持病である。渚は出席日数が足りなくて留年する程病弱で、早苗はいつも心配しているが、心配していつつも、自身は働いている。病気の娘を持つ母は専業主婦になってもおかしく無いが、早苗は働いているのである。ここに俺は、何か真新しさを感じる。放任主義でもなく、自営業なので渚が発病した場合、直ぐに駆けつけることが出来る。上手くバランスが取れているように見える。
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最後に岡崎家について書くと、希薄な時間を子供に費やし、良いことを押し付けるのが善であるのか、父一人で育て、結果自己崩壊していった直幸は悪なのか。唯一つだけ書けることがあるとすれば、僕達私達は、母子家庭、あるいは父子家庭の子の方が、一般家庭の子と比べて一角の人物(である場合)が多いということを知っている。そしてそれは、岡崎朋也の場合も例外ではない。
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最初に、ここに誰もが罠に陥るだろう二項対立を置いておく。古河家(善)と岡崎家(悪)の二項対立だ。アニメ版CLANNADでは今のところそう描かれているし(直幸ルートの構成力次第では二項対立が解消されないかもしれない)、原作も前半部分そう描かれていた。だが、この二項対立は誤りである。
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直幸は朋也にとって悪だったが、アフターストーリー後半、汐との軋轢を修復すると、ほぼ同時に直幸との軋轢を修復する。何故このようなシンクロニシティーが起こるのか。それは、(1)直幸と朋也、(2)朋也と汐はそれぞれ親子関係だが、単に血縁にあるというだけではなく、前者と後者の図式は驚くほど酷似しているからである。
(1)直幸は朋也のことを愛しているが、父一人で育ててきた満身創痍と、朋也の肩を傷付けてしまった自責の念とでコミュニケーションが上手くいかない。
(2)朋也は汐のことを愛しているが、渚を失った傷心から立ち直れず、長期間古河家に汐を預けていたことで汐と上手く意思の疎通が出来ない。
(1)朋也は自分を育ててくれた故に果ててしまい、怠惰になり、自分を他人のように扱う父が許せないが、それは愛情の裏返しである。
(2)汐は生まれて直ぐに古河家に預けられ、親でありながらも育児を放棄している父を遠い存在のように感じるが、父の胸で泣きたいと願う。
花畑で汐の愛を知った朋也は丘の上では直幸の愛を知り、直幸を愛していた自分に気づく。そして、父となった朋也は嘗て父となった直幸と同じように、丘の上で我が子を父一人で愛し育てることを誓う。その後、長い間帰らなかった岡崎家に帰省した朋也はようやく直幸との間隙を修復することが出来る。(このときの直幸の第一声はとても感慨深いが割愛する)
さて、何故このように連鎖的に関係を修復できたのかを俺の言葉で書くと、「気づき」を得たからである。原作CLANNAD作中で朋也が「普遍的な幸せは無い」と言うシーンがあるが、他人が幸せを定義するのでなければ誰が自身の幸せを決めるのか。それは、自分自身に他ならない。では、愛されているのに愛されていないと感じる者が、愛を得て幸せになるにはどうすればいいのか。そう、気づきである。幸せになるには、気づきを得るしかないのだ。(現状に満足すること)
話の主旨とは少しずれるが、小さなてのひらの歌詞にあるように、
小さな手にも いつからか 僕ら追い越してく強さ
CLANNADの主人公は言うまでもなくアフターストーリー前半までは朋也であるが、後半汐の誕生からは主人公は汐に入れ替わると俺は考える。(もっと言えば渚の妊娠発覚から)何故なら、それまでは朋也中心に動いていたストーリーが、汐の誕生によって汐中心に移行していくからだ。
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では、古河家を書することにする。俺は前々から古河家が現実にはない嘘家族だと言われること(ようするに、あんな家族ねーよ批判)に疑問を持っていた。でも、そう言いながらも僕達私達は古河家を良き家族だと認識する。それは何故だろうか。
1950年代後半から急速に幸せな団地家族というイメージが一般化する。その一方、それ以前には無かった専業主婦と呼ばれる、子育てに専念する母親という存在も、一般化してくる。団地化の要因の一つを挙げると、1950年代後半、テレビが普及していき、特にアメリカのテレビドラマを通じて、一般の人達は幸せな家族幻想を抱いた。それは、新しいタイプの父と母と子の団地家族という生きる動機付けであり、そういう家族とはどういうものかを擬似的に体験させるのである。この幻想を崩壊させるのが70年代後半である。1978年、開成高校生絞殺事件(親が息子を殺す)が起こり、二年後には逆に親を殺す神奈川金属バット両親殺害事件がある。その間にはイエスの方舟事件(家庭を捨てて逃げる)が起こる。一方、その只中で共通一次試験が始まり、急速に塾通いが増える。この過渡期、結婚への夢が消え、家族の幻想が急速に失われていく。しかし、家族幻想をまだ持っている人間はそれを糊塗しようとするが、いろいろなところに歪みが出てしまい、家庭内暴力などに表出してくる。
ここまで書けばもう分かると思うが、1950年代後半の良き家族がCLANNADで描かれている古河家ではないだろうか。そして、70年代後半から続く、家族の夢の崩壊があんな家族ねーよ批判や、所謂嘘家族と呼ばれる所以なのではないだろうか。(この思想のモチーフが岡崎家だとは書かない)
だが、1950年代後半の良き家族とCLANNADの古河家は似て非なるものである。ここでキーワードを挙げる。それは「専業主婦」である。1950年代後半から70年代後半までの幸せな団地家族という夢の共通前提があった時代は、子供にとって何が良いのか自明であったが、現代になると、何が子供のためなのか自明ではない。バブルが崩壊した1991年以前に、勉強して、良い大学に入って、良い会社に入れば、幸せになるという教育をされてきた子供は、完全に割を食ってしまった。この現代において、希薄な時間を潰すために専業主婦がやる、子供に対して生き方の見本を示す行為は、何かと問題が多いのである。
ここで、古河家は1950年代後半の良い家族のモチーフを反復してはいるが、渚の母古河早苗は専業主婦ではない。時にはパン屋の手伝い、時には塾の講師をやっている。一般家庭なら何の問題も無いように思えるが、ここで重要なのが、渚の持病である。渚は出席日数が足りなくて留年する程病弱で、早苗はいつも心配しているが、心配していつつも、自身は働いている。病気の娘を持つ母は専業主婦になってもおかしく無いが、早苗は働いているのである。ここに俺は、何か真新しさを感じる。放任主義でもなく、自営業なので渚が発病した場合、直ぐに駆けつけることが出来る。上手くバランスが取れているように見える。
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最後に岡崎家について書くと、希薄な時間を子供に費やし、良いことを押し付けるのが善であるのか、父一人で育て、結果自己崩壊していった直幸は悪なのか。唯一つだけ書けることがあるとすれば、僕達私達は、母子家庭、あるいは父子家庭の子の方が、一般家庭の子と比べて一角の人物(である場合)が多いということを知っている。そしてそれは、岡崎朋也の場合も例外ではない。
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