2008年03月30日 21:23
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それで、その子供達を見ていると、やっぱり思うんだ。
「この子達が何時までも笑っていてくれたらいいな。この子達の脅えた顔は絶対に見たくないな」
子供達が泣いている顔も、大人から見れば可愛かったりするので(本人は必死だろうけど)、「脅えた顔」と表現した。大の大人に殴られたり、怒鳴られたり、無理矢理手足の自由を拘束されたりして、恐怖で引き攣る子供達の顔は見たくないんだ。
でも、俺は自分の子供以外の子、「大きな家族」を守れる程強くは無いから、「能動的」に子供を守ると言うことは無理だ。ややもすれば、俺が「変なオジサン」として通報され兼ねないからだ。だから、実際に誘拐の現場を目撃したりしなければ助けられないと言う、飽く迄も「受動的」な態度になり勝ちだ。
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さて、上記を踏まえてCLANNADを批評していくと、俺がCLANNADをプレイしていて汐に感じた「感情」は、正に上述したような、「性愛」や「恋愛」ではなくて、それらを超越した「愛」だった。「好き」なんだけど、その「好き」が、体を弄りたいとかではなくて、手を繋いだり、頭を撫でたり、それが駄目だったら見てるだけでもいいやみたいな感情だ。そういった感情から、俺は汐が「好き」だったし、「現実」の子供達と同様に、「可愛い」から感情移入していた。
だが、もしCLANNADがエロゲで、汐が攻略キャラで、行き着く果てがセックスだったら、俺は絶対に汐に感情移入はしなかったし、「好き」にもならなかっただろう。何故なら、「攻略キャラ」になった瞬間から、汐から漂っていた「現実」の匂いが消え、「虚構」の匂いで充満するからだ。僕達私達は、少なくとも俺は、「虚構」の「キャラ」には何の愛着も湧かない。
「愛」と「セックス」は不即不離の関係であり、「愛」を語るには「セックス」が避けて通れないことを、僕達私達は知っている。これは大変重要な事実で、「大人同士の関係」と同じように、「汐と本当の“愛”を感じ合うためには、まず“セックス”をしなければ駄目だ!」と言う意見が一見罷り通ってしまうからである。だが、僕達私達はこういった思想が、「狂った思想」であることを知っている。だから、「渚」はアリだが、「汐」は駄目で、「エロゲに出てくる幼稚園児」はアリだが、「CLANNADに出てくる汐」は駄目である。「セックス」を前提にしたキャラ(セックスをしなければ成り立たないキャラ)と、「愛」を前提にしたキャラには無限の距離がある。エロゲで、大人と子供による「現実」では有り得ない「セックス」が描写出来るのは、偏に、作品を「プレイする」ことで、「現実」から「虚構」にスイッチを切り替えているのと同時に、「子供への感情」も、「愛」(現実)から「萌え」(虚構)へと切り替わっているからだ。よって、大人と子供のセックスが描写される作品に於ける「子供」は、単なる「登場人物」に過ぎず、「萌え」はあっても「愛」は無い。
「エロゲにエロは必要か」とか言う実に下らない題目があるが、エロがいる作品(登場人物)もあるし、エロがいらない作品(登場人物)もある、唯それだけだ。もちろんCLANNAD(汐)は後者である。
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人間(特に日本人)はある程度の年齢(10歳くらい)からは、個性が埋没されていき、反対意見を出すことを恐れ、「ズレ」ている者を忌み嫌うようになる。この問題について述べていくと教育問題にまで発展してしまうので詳述しないが、この「普遍化」は、学校教育によって「洗脳」されていない無垢な子供達には通用しない。子供達は何時も恣意的に振舞うし、又、大人達も、そんな子供達の「ズレ」を容認している。大人(思春期から)になれば、「ズレ」ているのが普通ではなくなるので、「ズレ」ている者は村八分にされるが、子供達は「ズレ」ているのが普通なので、子供達の「ズレ」は「可愛い」と言われる。だから、子供には色々な子がいるし、その多種多様な子供達が、皆好き放題するもんだから、幼稚園や保育園は想像しただけでも大変だ。先生方には頑張って欲しい。
さて、ギャルゲーエロゲーの在り方を示した芳野祐介と麻枝准その1「CLANNAD AFTER STORY」批評で書したように、俺はCLANNADをプレイしていて、渚やことみや風子には「ズレ」を感じた。だが、汐には全く感じなかった。何故なら、上述したように、「現実」の子供達には多様性が認められていて、様々な性格の子供がいるので、仮令「虚構の登場人物」であったとしても、岡崎汐と言う名前の女の子も、「現実にいる大勢の子供達」の中の一人にいそうだと思えるからだ。この錯覚は、発育途上の「子供」だからこそ持ち合わせている二つの性質、普遍化を受けていないが故の「純粋性」と、後述する「神秘性」から生まれる。
子供の頃に見えていたものが大人になると見えなくなる、逆に、子供の頃に見えなかったものが大人になると見えてくることから分かるように、子供と大人は、目の高さや付け所、考え方が違う。だから、大人から見た「訳の分からない遊び」に代表されるように、子供同士にしか理解出来ない感覚があり、世界がある。このことから、子供の「神秘性」は発現する。
「現実」の子供達が備えている「純粋性」と「神秘性」を、そのまま「虚構」の子供にも持ってくれば、多くの人は、そのキャラクターを見て違和感(現実とのギャップ)を感じず、「可愛い」と感じる。「セックス」を欲する子供等、極端な性格だったら別であるが、「虚構」でより「現実感」を出したいのならば、幼児を登場させれば手っ取り早いのかもしれない。
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CLANNADは、ギャルゲーと言うジャンル上、「“虚構”に“虚構”を重ねた作品」をやらざるを得なかった。だから、所謂「序盤」では、永久に詰まらない「虚構」が続いていた。それを、アフターストーリーの芳野祐介で打破し、CLANNADをより高い位置へと引き上げた。芳野祐介と麻枝准の答えは、「敢えて“虚構”をやる」と言う革新的なものだった。それを前回書いていたのに、何故又「子供達に於ける“虚実”」について述べているのか、疑問に思われる人も多いだろう。
何故再度敷衍してきたのか、その理由は、後述する五つの重要なシーンだけは、「“虚構”に“虚構”を重ね合わせた作品」である筈のCLANNADが、「“虚構”を以てして“現実”を見せる」作品に移り変わっているからだ。その五つのシーン以後、当然のように、CLANNADは「日常」と背中合わせに「非日常」が存在する世界、「虚構」へと着地していく。流れを書くと、「“虚構”の宣言」をした後で、「“虚”を以てして“実”を見せ」、又、「日常と非日常が混交する“虚構”」に回帰する。
だが、アフターストーリー以前の「虚構」と、アフターストーリーからの「虚構」は似て非なるものだ。アフターストーリー以前の「虚構」は、ギャルゲー的な世界観故の「虚構」であったのに対し、アフターストーリーからの「虚構」は、「幻想世界」と「現実」がコインの裏表であるが故の「虚構」となっている。朋也がいる世界(表)が僕達私達がいる「現実」に近ければ近い程、「幻想世界」(裏)の不可思議さ、茫漠さが際立つのだ。「幻想世界」とは文字通り「敢えて虚構をやっている」象徴のような世界だが、その「虚構」がラストで上手く機能した最大の要因は、アフターストーリーで「家族」「変わる」「夢、目標」の三本柱を涵養し、「物語」でありながら、一方で人生と呼ばれる程の「リアリティ」を築いてきたからに他ならない。
このように、アフターストーリーに入ってからは徐々に「虚構」の匂いが消えていった。そして、完全に「虚構」の匂いが消え、「現実」の匂いで満たされた箇所がある。それが、「幻想世界」が強調される直前に、立て続けに起こる五つのシーンであり、それは、CLANNADを語る上では欠かせない、壮大な「気づき」の物語であった。
「気づき」とは何か。
嘗て、マザー・テレサはカルカッタのスラムでホスピスを作ったが、そこでマザーがやったことは飢餓や病気で死に行く人々の体を綺麗にし、温かい食事を食べさせ、逝くその瞬間まで寄り添ってあげることだった。その行為は、死の瞬間に、人間に尊厳を与える愛の行為だ。つまり、無駄死にではない、ただ死ぬだけの命ではない、生きてきたことに「意味」を与えてくれる行為だった。そのマザーは、来日したときに、「豊かな美しい国に於ける大きな心の貧困」を語った。「この世界には食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きい」、と。
確かに、寒さを凌ぐ家も無い、今日食べる物も無いことは、一目で分かる貧困である。俺は断食経験があるので、多くの日本人よりはその辛さを理解しているつもりだ。だが、「貧困」がそのまま「不幸」に繋がる訳ではない。少ない食料を分け合い、助け合っていかなければならない中でも、子供達に笑顔が絶えなければ「不幸」ではない。その意味では、闇の子供たちで描かれる社会こそが、「真の不幸」なのかもしれないが、果たして「不幸」は僕達私達とは無関係なのだろうか。
そうではない、ニューヨークにも、ロンドンにも、東京にも、「不幸」は蔓延しているとマザーは喝破する。それは、一目で分かる不幸では無く、心の内にある不幸だ。「愛に飢えている」。水谷修が言う「攻撃的社会」の中で、只管「愛に飢えている」。奢る者は心嘗に貧しと言う諺に代表されるように、衣食住に富んでいる日本でも、「不幸」を感じ、自殺する人達は沢山いる。
では、僕達私達がそのような社会で、「幸せ」を感じるにはどうすればいいのか。それは、「気づくこと」である。どんなに金を持っていても、恋人がいても、家族がいても、自分は「不幸」だと考えている限り、「幸せ」はやってこない。何故ならば、「幸」か「不幸」かを決めるのは他人ではなく、自分自身に他ならないからだ。荒廃した社会に埋もれがちな「愛」に「気づく」こと、それが幸せへの第一歩である。
これから述べていくが、CLANNADでは「家族の愛」に「気づく」ことによって、朋也は「幸せ」を得ている。勿論「家族」以外の、「大きな家族」にも、「愛」は満ち溢れている。
「気づき」の物語一つ目は、朋也が、岬で岡崎史乃と出会い、話をするシーンである。「その日」の岡崎直幸と、「同じ場所」で、「同じ立場」で、岡崎朋也は立っていた。そこで、直幸の「愛」に「気づき」、又、直幸を「愛していた」自分に「気づく」。あなたは、その日、この場所から…直幸と手を繋いで、歩いていったんですよ
(CLANNAD)
二つ目のシーンは、汐との懸隔がもう既に修復不可能だと朋也は思っていたが、汐の言葉によってまだ遅くない、これからでもやり直せると「気づく」シーンだ。「現実」にいそうな女の子である汐だからこそ、僕達私達はこの台詞に包含する憧憬や孤独を理解し、共感できる。そして、朋也は、直幸と「同じ場所で」、「同じ様に」、汐と共に歩いていく、生きていくことを、決意する。朋也は、汐が自分を「愛してくれている」ことに「気づき」、又、自らの内に覆い隠していた汐への「愛」に「気づく」。…さなえさんが、ないていいのは…。…おトイレか…パパのむねだって…
三つ目のシーン。朋也にとって生きる意味だった渚が死ぬこと、渚の死を認めることは、自身の死と同義だった。その事実に直面したら、心が壊れ、やがて自分も死んでしまうだろう。汐は渚に似ている。だから、一緒にいるのが怖かった。「現実」を見るのが怖かった。見ないように、認識する暇もないように、唯我武者羅に働き続けた。だが、汐の「愛」、汐への「愛」を知り、直幸にとっての朋也と同じ様に、朋也にとって汐が新たな生きる意味に「変わった」とき、朋也は渚が隣にいないと言う事実に「気づき」、尚且つその意味を理解する。ずっと、泣いてなかったのに…。夢中で生きてきたはずなのに…。ああ…もう、俺は受け入れてしまったんだ…。あの日から、5年が過ぎて…。そして、今、俺の隣には渚がいない。その現実を。
四つ目のシーンだ。朋也と同様に、早苗にとっても、秋生にとっても、渚は生きる意味だった。だから、早苗は、汐を育てることで、泣きたい気持ちを紛らわせて生きてきた。その務め(勤め)が終わったとき、渚がいなくなった事実を「目の当たりにする」。早苗は秋生の前で泣き崩れるが、そこに描かれるのは「家族」であり、紛れもなく「現実」でも通用する「夫婦愛」である。早苗はこのシーンまでは「虚構」染みたキャラだったが、弱さを見せることで彼女は「現実」の「母」となり、「妻」となる。僕達私達は、朋也を通して渚の親である秋生と早苗を見ることで、「秋生と早苗による渚への愛」に「気づく」と同時に、「こちら側」に存在する、僕達私達を愛してくれている「親の愛」と、愛し合う二人が死ぬまで助け合って生きてきた、「夫婦の愛」に「気づく」。「虚構」をプレイしていた筈が、そこに「現実」を見出すようになる。秋生「おまえは、よくやった。今度はおまえが泣く番だ。どうしようもなくなっても…。俺が助ける。おまえが泣きやむまで、そばにいてやる。だから、泣け」
早苗「………」
その日、初めて、俺は早苗さんの弱さを知った。子供のように泣く、早苗さん…。そして、それを何も言わず見守るオッサン…。そのふたりに俺は、一生の家族でいることを誓った。
五つ目のシーンで、「現実」と「虚構」の懸隔が限り無くゼロに近くなり、朋也が直幸に対して思ったこと、感じたこと、気づいたこと、それがそのまま、僕達私達の両親に対する思いや「気づき」に繋がる。その「気づき」とは、後悔と感謝と、果てしない「愛」であった。親とは、こんなにも偉大な存在なのだろうか。親とは、自分の利己的な感情を全て捨て去って、唯子供のために生きる道を選んだ、内在的で、滑稽で、馬鹿で…、どうしようもなく有り難い存在だったのか。親父「もう…いいのだろうか…」
朋也「何が…?」
親父「もう…おれはやり終えたのだろうか…」
あの日の誓い。…俺を自分ひとりの手で育てること。そんなことを思い出してるのだ、この人は…。本当にそのためだけの、人生だったのだろうか…。この人の人生は、俺のためだけにあった人生なのだろうか…。俺なんかの、出来の悪い息子のためだけに頑張った…。…そんな人生だったのだろうか。
古河家には、自分の家族には無かった「夢」があると思っていた。だから、渚と家族になって、古河家とも家族になって、岡崎家には無かった「愛」を感じていた。だが、朋也は覚えていないだけだった。何時も「愛」は直ぐ傍にあったのに、「気づいていない」だけだった。僕達私達も、普段は近すぎて、その大切さに「気づかない」ことが多々ある。そしてあるとき、「それ」を失い、失ってから初めてその大切さに「気づく」。だから、CLANNADは朋也と直幸を通して、僕達私達が「それ」を失う前に、僕達私達に「気づかせてくれる」。親父はしゃがみ込んで、汐の頭に手を載せた。そして、にっこりと笑う。そんな温かな笑みを、長いこと見ていなかった。ずっと昔、小さい頃の記憶の中に、その笑みはあった。幼い日の俺は、そうして微笑みかけられていた。
こんな親不孝な子供を育てることが、直幸には、「僕達私達の親には」、幸せだったのか。見返りを求めない本当の「愛」がこの世にあるとしたら、それは「親から子への愛」に他ならない。だが、その本当の「愛」でさえも、完全に利他的ではなかった。ちゃんと見返りがあった。直幸の「幸せ」そうな、穏やかな顔がそれを教えてくれる。その「幸せ」は、「現実」にいる僕達私達の両親にも恐らく繋がっている。親父の穏やかな顔…。すべてをやり終えた顔…。それを見ていると、ぽろぽろと涙が零れだした。この人の人生は、幸せだったのだろうか…。一番幸せな時に…愛する人を亡くして…。それでも…残された俺のために頑張り続けて…。俺みたいな…親不孝な息子のために…。どんな孝行もできなかった息子のために頑張り続けて…。それで…幸せだったのだろうか…。
朋也は、父直幸からの「愛」と、朋也が持ち続けてきた直幸への「愛」に気づいた。そして、直幸も、朋也からの「愛」に気づいた。その「気づき」が、二人の余りにも小さすぎた溝を修復し、「見せ掛けの不幸」を「幸せ」に変えてくれたのである。ただ、ひとつだけ…わたしは今も誇りに思いたいのです。人間としては、駄目だったけど…。父親としては、立派だったと
ここに、「虚を以てして実を見せる」、CLANNADの本質を見出す。そして、「実を見せた」後で、麻枝准は僕達私達に託している。この「感動」を、是非「現実」に還元して欲しいと。
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畢竟するに、CLANNADは「単なる虚構作品」で終わっていなかった。CLANNADで「泣く」ことが気持ち悪いと言う人もいるだろう。でも、俺は開き直りではなくて本心から、気持ち悪くてもいいからCLANNADを好きでいたいと思った。CLANNADは、恰も「虚構」しか無い作品に見えるが、否、「虚構」作品だからこそ、「現実」に無数に存在する、見えていないだけの、「気づく」ことで得られる美しさを描いているからだ。
それでも、親に苦労させられている人達は、CLANNADで描かれている「気づき」を奇麗事だと言うだろう。だが、「それにもちゃんとCLANNADは答えている」。「全ての人の、全ての批判に、真正面から答えている」。だから、CLANNADはAIRとは違う種類の、類稀なる名作となった。
俺は、CLANNADに描かれている「答え」をほんの少し文章にしただけで、まだまだCLANNADに内包するメッセージや「答え」はある。だが、それらを全て書くことはしない。何故ならそれは、CLANNADをプレイしていれば自ずと「気づく」ことだからである。「作品で感じた不満に、作品内で答えている」。それが、CLANNADの美点であると、俺は感じている。


