2008年03月26日 19:11
アフターストーリー突入前、俺はCLANNADを駄作とまでは行かなくても、「凡作」であると強く感じた。各キャラのシナリオは、冗長で退屈で、新鮮味に欠けるものばかりだった。風子ルートは「逆認知症」と言う設定(“私が”記憶を無くしていくのではなくて、“周囲が”記憶を無くしていく)が面白くはあったけれど、所詮Kanonの真琴やAIRのみちるの二番煎じだし、ことみルートや勝平ルートは「個人的に」卓抜してはいたものの、それ以外のシナリオは全て、オチが読める予想通りの展開で、「驚き」が全く無かった。過去の作品のアイデアが多分に使い回されているので、KanonとAIRをプレイしていれば、CLANNADをプレイする必要は無いと思った。そして、沢山の人達の例に漏れず、AIRが大変秀逸だと感じている俺は、「麻枝准がネタ切れなのは一目瞭然、彼のシナリオライター生命は終わったな」と一人哀愁を帯びていた。
だが、アフターストーリーをプレイしていく途中、風子ルートでは端役、勝平ルートでは都合良く出しにされただけで、昔著名なミュージシャンだった設定が全く生かされていなかった「芳野祐介」の語りを、見て、聞いて、俺は確信した。CLANNADはAIRとは違う種類の、類稀なる「名作」であり、この作品は恐ろしいことに、「麻枝准の本音が出ている」。今までプレイしてきた全てのシナリオは、アフターストーリーのための、単なる「伏線」であり、厖大な「予告編」に過ぎなかった、と。
その1ではツンツンしていたあゆみさんの、壮大なデレ期が今始まる。
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芳野祐介と同じ職場で電気工として働く朋也は、ある日、芳野と車で移動中に、聞き覚えのあるイントロが流れてくるのに気づく。ラジオから流れてくるその音楽は、嘗てミュージシャンだった芳野が作った曲だった。今は「夢」破れ、しがない電気工となった芳野に、過去の栄光を見せ付ける、偶然が起こした皮肉だったが、意外にも気にも留めずに、芳野は自身の過去を語り始めるのだった。それは、音楽をきっかけとした伊吹公子との出会いと別れ、一度掴んだ「夢、目標」を諦めざるを得なくなった「転向」の理由、そして、数年後に再会した伊吹公子が芳野の新たな「夢、目標」になり、又、「家族」となるまでの、芳野が半生を掛けて得た、「気づき」の物語だった。
このように、芳野祐介の語りは、「家族」「変わる」「夢、目標」の、CLANNAD三本柱を全て包括した内容になっていて、大変興味深い構造ではあるが、この語りの精髄はそこではない。又、東浩紀の言うように、「超越性を捨て、故郷に帰る」物語にもなっているが、過去のエントリで補足したように、それも重要ではない。では、この語りが持つ、重大な要素とは何なのか。それを述べる前に、CLANNADのシナリオライターである麻枝准について抑えておきたい。
CLANNADのシナリオライターである麻枝准が、シナリオを書く一方で、作詞や作曲も手掛けていることは、多くの人が存知していることだろう。CLANNADでは、「渚」、「同じ高みへ」、「遙かな年月」、「小さなてのひら」等を作詞作曲している。麻枝准の過去の日誌を読むと、その殆どが音楽しか話題に上っていないことからも分かるように、音楽への情熱や愛は一頭地を抜いていて、彼の「世界観」は、正に音楽(詞や曲)にこそ表れている。そんな麻枝准は、ゲーム業界に入る際に、当然のように音楽の仕事をすると最初は決めていたが、不合格が相次ぎ、「仕方無く」シナリオに転身する。
もし、麻枝准の音楽が早くから認められていたら、僕達私達はAIRやCLANNADをプレイすることが出来なかったかもしれないので、麻枝准には悪いが、この麻枝准の「不幸」を大いに喜びたい。兎にも角にも、上述した、麻枝准の音楽への愛は、芳野祐介を考察する上で非常に重要なので、良く頭に入れておいて頂きたい。デモテープ作って、一般ゲームを作っているところに送りました。でも、どこもダメで、作品が一次審査すら通過しなくて、不合格通知ばっか。
(中略)
「自分は絶対にゲームに関わりたい」というのがあって、ゲーム音楽を仕事にしようとしたんだけど、どうもそれは無理だと悟った。で、小説も書いていたから、文章……シナリオに絞り込んでみようかなと思ったんです。(麻枝准インタビュー■visualstyle2008年1月号)
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では、芳野祐介の話を詳しく見ていく。
序盤は少年が、音楽と女性教師に出会ったことを中心に据えて語られている。大事なのは、この語りの主語が、引用のように「少年」となっていることだ。芳野の語りは、話の中で一貫して個を埋没させ、その代わりに、ある「少年A」の物語であるとした語り口である。実際には「芳野祐介」の半生なのだが、それでは余りにも自分語りが過ぎるため、敢えて自身を埋没させているのだろう。よって、主語が曖昧になるので、芳野が語る「少年」には、当たり前だがアイデンティティが無い。飽く迄も、何処の誰かも分からない、「少年A」の話になっている。十三の時、少年は音楽と出会った
(CLANNAD)
この「少年」は、「女性教師」と、将来プロになると言う約束を交わす。果たして、「少年」はプロになる。
「麻枝准」は「シナリオ」で、「彼」は「音楽」で、それぞれプロになった。「唯我武者羅に」…、恐らく、若い頃は皆そうだろう。しかも、長年思い描いてきた夢が叶ったのだから、右も左も分からないながらも、全力で、夢を享受する。そして、自分のやりたいことをやっていながらも、それに「共感」する人達がいてくれるのだから、「彼」は壮快な気分だった。「彼」の音楽を共通前提とした「大きな家族」は、「人の生きる力」になると、「彼」は考える。この引用からは、主語が「少年」から「彼」に替わり、「少年」が大人になったことを示している。こんな簡単なものだったのかと拍子抜けするほどだった。でも、夢が叶った瞬間だ。彼は自分を否定してきた連中にざまぁみろって思った。そして…これで、もう自分は、音楽から引き離されずに済む…。そう思って、少年はほっとした…。それからは、がむしゃらだった。何もかもがむしゃらだった。力を抜くとか、器用にこなすとか、そういうことが苦手だった。だから、歌いたいものを、全力で歌った。
(中略)
そして、ものすごい力を生んだ。ライブ会場で、ひとつになったとき…。あるいは新譜が発売されて、それを全国のファンが一斉に聞いたとき…。その日から、しばらくは強く生きていけるだけの…力を生んだ。それが、共感というものだ
逆接の後で、「彼」は、ファンの元を巡ると言うドキュメンタリー番組に出演する。
「彼」は、「彼」を拠り所にして生きている多くの人達と出会い、自分のやっていることの重さに、畏怖の念を抱く。自分を求めるファン達の期待に、常に応えていかなくてはならないことを自覚すると同時に、自分の「音楽」が、社会や家族の底辺で藻掻き続ける彼等彼女等を救うことが出来るのか疑問に思う。自分のようなちっぽけな人間が、自分よりも頑張っている人達に「頑張れ」と歌い続けることの辛さや、自由に歌えないことへの息苦しさを感じ始める。体や生活がボロボロな奴らと彼は出会った…。本当に、自分の歌をより所とし、すがってくれていることを感じた。そして、その時になって、彼は気づいた。自分の言葉は…もう自分ひとりのものじゃなくなっていることに。
(中略)
体にハンデがある奴…。親のせいで、とんでもない苦労をして暮らしてる奴…。精神が弱くて、今にも壊れてしまいそうな奴…。それは、ほんの一部で…。まだ会ったこともない何千、何万もの、そうした奴らが彼の音楽に救いを求めていて…。そして彼は、そんな奴らのために、音楽を作っていかなくてはならないのだということを…認識させられた
「彼」はドキュメンタリー番組に出演した後、曲作りが出来なくなる。「彼」は、自分が想像していた以上の過酷な「現実」を目の当たりにした後で、今まで作り、歌ってきた曲が、「奇麗事」に過ぎないことに「気づいてしまった」からだ。だが、「彼」が思う、「奇麗事」に救われた人達が数多くいることも、又事実である。現実を知った彼は、昔の自分はなんと浅はかな曲を作っていたものかと、あざ笑っていたんだ。現実なんて、もっともっと壮絶なんだと。おまえが知ってるのは上辺でしかない。格好を付けてるだけだったんだとな
曲が書けなくなった「彼」は、暫く活動を休止する。だが、皮肉にもその間に、ドキュメンタリー番組で会った「彼」のファンが事件を起こしてしまう。その直後、「彼」は自責の念と共に、「覚醒」する。
「敵」とは誰だろうか。「自分自身」だとする考え方もあるだろうが、やはり「彼」の「ファン」だろう。「彼」が自由に曲を作り歌っていた頃は、「彼」を礼賛していたのに、「彼」が「暴走」し始めた途端、手の平を返したように罵詈雑言を浴びせる客達。「昔の方が良かった」、「終わった」、「糞」…このような意見と、「彼」は戦い続けた。どんなに今の自分が頑張り続けても、過去の業績(曲、作品)には到底敵わないし、世間も新譜が出る度に過去の作品と比較して、新作を駄作と呼ぶ。その意味では、「彼」にとって「ファン」と共に敵だったのは、「過去の自分」とも言える。…進まなければならない。自分を必要としてくれてる奴らのために、自分は進み続けていかなくてはならない。
(中略)
みんなの必要とするものは、それなんだと決めつけて…。どうしてこんなことを歌っているのか、自分でさえよくわからなかった。自分の疑念を振り払って…歌い続けた。それは、戦いだった。でも、戦い続けるほどに、敵は増えていくんだ。彼は吠え続けた。糾弾し続けた。自分が生み続ける敵に向けて…
この台詞を、見て、聞いた、あのときの興奮が今でも忘れられない。初プレイ時は、興奮し過ぎて忘我の境地に入ってしまった程だし、その後も6回は語りを読んでいるが、この台詞に差し掛かる度に震えが止まらなくなる。何故なら、このたった数行の文章だけで、アフターストーリー以前に書いた俺の文章(前回記事)が顛倒させられ、尚且つ、amazonの星1つや星2つのレビューを、悉く一蹴してしまっているからだ。そして、俺の中でのCLANNADの価値を一気に押し上げ、CLANNADを永遠の名作とした台詞だった。やがて、理想や綺麗事じゃ、太刀打ちできなくなった。そいつらを薙ぎ払うには、もう、現実を叩きつけるしかなかった。その時の、彼の向き合う現実ほど、痛々しいものはなかったからだ。結果、歌は、理想を逸脱し、生臭いものとなっていった。与えられるものは希望や勇気ではなく、現実の苦汁だけとなっていた。そして、彼はラブソングさえも歌えなくなってしまっていた
解説していく。まず最初に断っておきたいのが、この記事で芳野祐介の話を態々順序立てて述べてきたのと、前回長文記事を掲載したのは、全てこの台詞を真に理解して頂くためである。俺は、その1で、眼前に広がっている「現実」に目を瞑り、作品と言う「虚構」の上に、更に心が綺麗な登場人物と言う「虚構」を上乗せしているCLANNADは、「家族」をテーマにしていながらも、その実何も伝えることが出来ていない、中途半端な作品であるとして、批判してきた。「虚を以てして実を見せる」ことは可能だが、「虚に虚を重ねた作品で実を見せる」ことは出来ず、それを無理矢理やれば単なる「奇麗事」で終わる。もっと、現実で起こっている問題を取り上げて作品を作れ、現実の醜さを伝えろ、「現実を叩きつけろ」…、そのように書いた。
だが、「芳野祐介=彼=麻枝准」は、この考えを真っ向から否定した。
「“虚構”を以てして“現実”を叩きつければ、そこには苦汁を嘗めるような痛々しい物語が残るだけだ。それでは誰も救われない。仮令“奇麗事”でも、感動する人がいる、誰かの“生きる力”になるならば、俺は敢えて“虚構”を作る」
「麻枝准」は、CLANNADの登場人物であり、自分と同じように音楽を愛している「芳野祐介」に仮託して、自分の思いや考えを言わせたのだ。Keyのシナリオを書く上で、俺がその1で批判したようなことを沢山言われただろう、親のせいで苦労をしている人には「下らない妄想」だと罵倒されただろう、登場人物が常軌を逸していると言われただろう、物語が「奇麗事」で有り得ないと言われただろう、「現実を見ろ」と言われただろう…。だが、麻枝准は、「そんなことは織り込み済みだ。その上で、俺は敢えて作られた“温かい家族”をやり、“妄想”をやる。この荒廃した社会の中で、“虚構”作品でさえも“温かみ”を失ったら、人間は何処で“気づき”を得ればいいのか。せめて“虚構”の中だけでも、人間の正しい在り方を示す」、こう言っている。
その1で、路上生活者に対して取る行動の事例として、「現実」の女の子と「虚構」の女の子の二人を挙げた。「現実」の女の子は、見て見ぬ振りをして過ぎ去っていくが、「虚構」(CLANNAD)の女の子は、絶対にそっと近寄って、手を差し伸べるだろう。「現実」の方が間違っている、「虚構」の方が正しいことは、往々にしてあることだ。
これはいじめ問題に置き換えると分かり易いだろう。「現実」でいじめが無くならないのは、それを止める人間がいないからだ。いじめる人間、いじめられる人間よりも、圧倒的多数を占める「傍観者」が、何もしないからいじめは無くならないのだと、識者は度々言う。だが、「虚構である作品」内でいじめが発生すると、かなりの割合で止める者が現れる。「現実」にはそんな奴は皆無かもしれないが、「作品」の中では断固として、人間が取るべき正しい態度を示している訳だ。だからこそ俺は、「シゴフミ」のフミカや森下を批判し、「神霊狩/GHOST HOUND」の匡幸を賞賛している。
俺が引用文の考えに至ったのは、全て芳野祐介シナリオの御蔭であり、麻枝准の功績だ。本音とか建前とか色々あるけれど、いじめに関してはいじめた奴が絶対的に悪く、いじめられている奴を体を張って止めるのが格好良いということを、漫画やアニメ等の現実に対しての虚構作品でやらなくなったら御仕舞いだと俺は思う。
(魂抜けできたら何したい?■神霊狩/GHOST HOUND12話)
このような、作中の登場人物に仮託して、作者の代弁をさせる行為は、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジと庵野秀明を彷彿とさせる。碇シンジが発する「エヴァに乗りたくない」と言う台詞は、そのままメタファーとして機能し、庵野秀明が「アニメなんか作りたくない」と言う思いに繋がる。新世紀エヴァンゲリオンは、物議を醸した第弐拾伍話、最終話を見れば自明であるように、庵野秀明が「レッドゾーン」で仕事をして作り上げた作品だ。「魂の座」エントリープラグを「エヴァンゲリオン」に挿入して初めて起動するように、「庵野秀明の魂」を注ぎ込むことによって名作「新世紀エヴァンゲリオン」が完成している。
このように、新世紀エヴァンゲリオンは、庵野秀明及びガイナックス社員が「レッドゾーン」で作ったからこそ良い仕事が残せた訳だが、CLANNADにも同じことが言えるのではないだろうか。前作のAIRが2000年に発売された後、度重なる発売延期によって、ようやく2004年に発売したCLANNADは、難産ではあったが、名作として今も語り継がれている。
再度麻枝准のインタビュー記事から抜粋した。発売の目処は立たないのに、客は待望し続ける。全てがおじゃんになって、又一から新しい作品を作り始めなければならない、開発中止との瀬戸際で、CLANANDは開発し続けられた。この背水の陣で臨んだからこそ、「CLANNADは人生」と言われる程の名作に昇華できたと言えるだろう。そして、CLANNADが発売されたとき、僕達私達がその日から暫くは強く生きていけるだけの力、「共感」が生まれた。何故なら、「CLANNAD」は、「芳野祐介の音楽」と全く同じ効力を備えていたからだ。『CLANNAD』は4年間作っていたんだけど、次から次へと問題が発生して、3回ほど開発中止になるなって、覚悟したんです。「あーもう完成せーへんわ」って。
上述してきたように、芳野祐介が語る「彼」と「彼の半生」が、「麻枝准」と「本音」であると分かった後で、この話を読むと、大変感慨深い。
芳野祐介と同じように麻枝准も、常に「過去の作品」、「過去の自分」と戦い続けている。それは、クリエイターとして生きると決めた者なら誰もが背負わなくてはならない、定めである。このまま、音楽で食っていこう。そう彼は思っていた。それ以外考えられなかった
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CLANNADで感じた不満が、同じくCLANNADで解消されるなんて予想もしていなかったので、大変喫驚したし、他の作品では決して見ることが出来ない美しさも感じた。芳野祐介の語りは、俺の古い見方を悉く破壊し、新しい価値観を植え付けるような、衝撃的な主張だった。それは、ギャルゲーやエロゲー、CLANNADだけを救う思想ではなくて、全ての「虚構」作品への考え方と、その価値を、根底から覆すものだったからだ。このような、作者の本音が垣間見られるギャルゲーを、俺は今までプレイしたことが無いし、これからもプレイすることは無いと思っている。
アフターストーリーまで、数十時間もプレイしてきたが、それに見合うだけの「感動」が待っていた。だからこそ、アフターストーリー無しでは、CLANNADは語れない。何故なら、「アフターストーリーがCLANNAD」だからだ。自分でもびっくりだけど、アフターストーリー二週目なのに、一周目よりも随所で泣いてるからね!
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「アニメでアフターストーリーをやらないんなら俺が補完してやるぜ!」と言うモチベーションから、アフターストーリーを語る上では欠かせない存在である芳野祐介を今回は考察した。後一エントリは書く予定なので、是非そちらもお付き合い頂きたい。


