2008/09 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 2008/11

2008年03月26日 18:04

One、Kanonもそうだったが、何故このゲームがあれほど評価が高いのかがわからなかった。特徴的な口癖で記号化された萌え、噛み合わない会話ばかりが続き全く人格の感じられないキャラ、思わせぶりなセリフばかりが多く難解なストーリー。はっきり言って、面白くなかった。私がゲームをやるのはゲームを通して別の人生を体験したいからだ。だから、主人公はどのような性格であれ、人格を持ち、行動に筋が通っている魅力のある人間であってほしい。そうすれば、より物語の中で別の人格を演じることが楽しくなる。支離滅裂な言動を繰り返し、その場限りの「ウケ」を狙うだけのキャラなど、演じようとは思えない。行動にも全く一貫性がないし。モテるのはぇちゲーの主人公のお約束だが、納得できる理由がなくては説得力がない。この主人公は会話の時「相手に何かを伝える」意思がなく、第三者(プレイヤー)の視点からしかわからない「1人ボケ」があるだけだ。コミュニケーションをまともに取れない人間は、普通誰にも相手にされない。モテる理由付けが全くないのだ。
(中略)
女性キャラに関しても同様だ。キテレツな対応しかせず、萌えはあっても人間的な魅力が感じられない。実際にあーゆう女性達に好意を抱くだろうか?ストーリーに関しても、説明があまりにも不足している。ファンタジーを否定するわけではない。ゲーム自体絵空事ということはわかっている。ただ、完璧な説明でなくても、それなりに納得のいく答が欲しいのだ。同じ騙すのなら、上手に騙して欲しい、と思う。

CLANNAD -クラナド- 初回限定版カスタマーレビュー■amazon.co.jp

なんていうか……アレに感動したとか家族愛がどうとか言ってる人って……もう……駄目でしょ。部屋に引き篭もってアダルトゲームばかりしてないで、まともな物語を読んでまともな人間と関わるようにしましょう。

確かに少しは感動するかもしれないけど、これを絶賛してる人は映画とかみていないよね?もっと視野を広げてみれば、いかに自分が浅はかだときずくよ。他にも趣味をもlたほうがいいよ。

あのね、このゲームに感動してる人たちに言いたいのは「もう駄目」とか「もっといい物語を」とかじゃなくてね、現実を見て欲しいの。貴方の目の前にあるものからすぐに逃げないで、真っ直ぐに見つめて欲しいの。それが出来るようになれば自然と分かるから、今の自分がいかに「ずれてる」かってことがね。

amazonの「CLANNAD -クラナド- 初回限定版」カスタマーレビューからの引用である。

関連記事
原作CLANNADを踏まえたアニメCLANNADを見るときの注意点その1
ギャルゲーエロゲーの在り方を示した芳野祐介と麻枝准その2「CLANNAD AFTER STORY」批評
オタクだけでなく一般の人達のために、虚を以てして実を見せる「CLANNAD AFTER STORY」批評



CLANNAD初プレイ時、アフターストーリー前の各ヒロイン攻略が余りに詰まらなかったので、他の人はどうだろうとネット上の評価を読んでいたら、猫も杓子も諸手を挙げて称揚し、恰も反対意見を出してはいけないかのように、付和雷同していた。その事態に気持ち悪さを感じたので、敢えて星1つ、星2つ、星3つのカスタマーレビューを抽出して読んでみたら、俺の意見と概ね一致し、彼等彼女等の書いていることは正しいと感じた。

CLANNADの記事なので詳述しないが、ギャルゲーエロゲーを絶賛している人間の中には明らかに「井の中の蛙」がいる。3つ目の引用文は正鵠を射ていて、アニメ以外の映画は見ていない、ラノベ以外の小説は読んでいないような人間が、「エロゲは文学」とか割と本気で言っているのを見ると、片腹痛くなる。宇野常寛は視野狭窄になり勝ちなオタク達に、常に広い視野で物事を見ろと言っているので、その点に関しては俺は激しく同意している。

織り込み済みで書いているのを、態々突っ込んでくる人がいそうなので補足しておくと、もちろん、中には映画好きのアニメ好きや、小説好きのゲーム好きがいることは百も承知だ。だが、少数か多数かは分からないが、確実に「井の中の蛙」はいると書いているのだ。

閑話休題、今回は4つ目の引用文の、「現実を見て欲しい」について考えてみたい。



虚実という言葉がある。虚構と「事実」という意味だが、今回は、虚構と「現実」という意味で用いる。現実とは、僕達私達が生きている、社会や家族等のリアルな空間を指し、虚構とは、CLANNAD等の、オタク的作品や映画、小説を指す。

CLANNADを持て囃しているオタク達に、恐らく「一般人」だと思われるユーザーが、amazonのカスタマーレビューで、「現実を見ろ」と書いた。要するに、夏エヴァで庵野秀明がやったような批判をした訳だ。

大多数の、CLANNADに心酔しているオタク達には、この批判の意味が分からないだろう。「現実を見ろ」と言われても、現実見てるし、働いてるし、学校行ってるし、趣味でゲームをプレイして、笑って泣いて何が悪いのか、と思うだろう。殺人事件や暴力事件の度に強力効果説を語る奴が出てくるが、それに対して、やはり何時も良識ある人々が反論していることを、僕達私達は知っている。オタクは、基本的に「現実世界」で真面目だし、「現実」と「虚構」をきちんと区別できている。これについて詳述していくと、昨今話題の児童ポルノ法改正にまで話が広がってしまうため、この記事では割愛したい。

さて、ではどうして、「一般人」はこのような批判をしたのだろう。このレビュアーがオタクについて誤解していたのであれば話は早いが、それではこの記事がここで終了してしまうため、もう少し考えていきたい。



俺が好きなアニメに、無限のリヴァイアスと言う作品がある。そのアニメを端的に書くと、「社会の縮図」である「リヴァイアス」と言う艦内に閉じ込められた子供達が、この異常な体験から情緒不安定になり、艦外ではヴァイタル・ガーダーと呼ばれるロボットで戦闘活動をしている最中、艦内では別の死闘が繰り広げられる。それは、人間の本能を露呈した自己中心的な行動から生じるものであり、それを見た視聴者は登場人物達に対して苛立つ。「御前等皆、自分勝手なことばっか言ってんじゃねーよ」と思うのだ。だが、その苛立ちは、制作側の意図するものである。

「これを見て御前等は怒りを覚えるかもしれないけど、“現実”ではこういうことが日常茶飯事的に起こっている。その、“現実の悪事”に直面したときに、怒髪天を衝くどころか見て見ぬ振りをしてしまうのはどういうことなのか。“虚構”作品に向けた怒りを、“現実”世界で起こっている様々な問題に対して怒れよ。この偽善者が」

このように、僕達私達を痛烈に批判しているのだ。「虚構」のキャラクターにぶつけたつもりの怒りが、ブーメランのようにして、「現実」にいる自分自身にそのまま返ってくる。つまり、「虚」を見せられている筈なのに、作中には制作側が意図する「実」が包含しているので、作品が、僕達私達にとって「他人事」ではなくなるのだ。「虚を以てして実を見せる」。無限のリヴァイアスはこのような作品だが、こういった暗喩は、特に映画に多い。

さて、CLANNADはどういう作品なのか。無限のリヴァイアスと同じように、前述した「虚実」を用いて表すと、「虚構」に「虚構」を重ね合わせた作品である。「作品」はそれ其の物が「虚構」であるのに、更にそれに上乗せされた、登場人物の「虚構」があるからだ。

何の長所も個性も無い主人公なのに、何故か女の子皆「俺」のことが好きで、告白すれば百発百中と言うことは、「現実」には有り得ない。主人公はイケメンなので、「現実」を反映していると言えばある意味反映しているのだが(容姿が一番!)、本田透の著書電波男に賛同するようなオタク達が、「現実」では顔で判断する女を罵倒しているのに対して、「虚構」では逆にそんな女を「萌え」とか言っているのは、おかしな現象である。

5人のメインヒロイン以外にも女の子は山のように登場するが、「こんな奴ら現実にいねーよ」と言うことを、まず確実に「一般人」は思う。何故、同い年や年上である筈の女達は、揃って主人公に対し敬語を使うのか。更に、家族間で敬語を使っている、あれは一体どういう現象なんだ、有り得ない。そして、あの変な口調や奇妙な触覚はなんなんだ云々…。

女の子との会話に目を向けてみると、1つ目の引用文にある通り、第三者的立場で見れば一見会話が成立しているように見えるけれど、当事者間では絶対に伝わる筈の無い会話であり、「現実」にCLANNADの登場人物のような、一人で話して一人で会話終了している人間が存在したら、まず、そいつは相手にされない。このように、「現実」と照らし合わせたときに、実際に動いて喋っている僕達私達と、「作品」の登場人物達には、「ズレ」が生じている。

CLANNADに登場する女の子は、一言で書くと、「人形のような女の子」だ。「男の理想」の女の子であり、「社会の理想」の女の子である。穢れが無く、清廉潔白であり、絶対に援助交際なんてしない。処女設定がその最たるものだ。

そして、駅周辺とか公園にいる路上生活者に対して、食べ物を恵んであげるような女の子なんだよ。でも、そんな女子高生は「現実」にはいないし、いたとしても極少数だ。実際には、手を差し伸べるどころか、指を指して笑い物にするか、良くて、見て見ぬ振りをして通り過ぎていく女の子が多い。その「現実」に麻枝准は目を瞑っていて、有りもしない女の子を創造して物語を作っている。「現実」ではもうとっくに失われた少女幻想を、「虚構」だからと言って見せるのは、滑稽で、時代錯誤に思えるのだ。

確かに、心が綺麗な登場人物ばかりを配置して物語を展開すれば、必然的に良い話にはなるが、それは余りにも「現実」と懸隔した世界での出来事なので、僕達私達は作品全体を通して、「痛み」を感じず、「気づき」も得ない。だから、その場の流れ(音楽、演出)で何となく泣いたりするかもしれないが、その感動は1週間も持たずに綺麗さっぱり雲散霧消するような、安っぽい作品で終わってしまう。俺はそういった作品を、文字通り「キレイな作品」と呼ぶ。

「別に虚構と虚構を重ね合わせた作品でも良いじゃん。面白くて泣けて笑えるからいーじゃん!」と言う意見が多数あることだろう。そのような意見を持つ人々を非難する気持ちは全く無いが、この評価はCLANNADの価値を著しく下げることになるだろう。何故なら、「娯楽」重視の作品だと認めてしまっているからだ。

「娯楽」とは、「娯楽と表現」の二つで作品を語った場合、「表現」とは対極にある。つまり、「商品ではあるけれども作品ではない」。良くできているのを感じるし、手は込んでいると思うけれども、後に何も残らないものだ。CLANNADは娯楽作品(所謂萌え)を楽しめる人達が高評価を付ける一方で、「一般人」には到底理解不能な作品だとしたら、果たして間違っているのはどっちなのか。敢えて書く必要がない程、その答えは自明である。

上記はオタク達が、CLANNADを「娯楽」作品として消費していることを前提に論じてきたが、実は、俺や麻枝准は、CLANNADが「娯楽」作品だと思っていない。恐らく麻枝准はプレイヤーに対して、杜撰に書けば、「家族はこんなにも素敵なんだ。大切にしろ」と言うメッセージを込めた筈だ。

CLANNADと言う作品には3つのテーマがある。一つは「家族」、二つ目は「変わる」、最後は「夢、目標」である。この三つのテーマについては過去に既述した通りなので、そちらを参考にされたい。

さて、「一般人」がCLANNADをプレイした場合、この三つのテーマが的確に伝わるだろうか。恐らく、無理だ。何故なら、作り手が「虚構」の中で「現実」の美しさを描こうとしているのとは裏腹に、「虚構」に「虚構」を上乗せした単なる「娯楽」作品で終わってしまっているからだ。無限のリヴァイアスのような、「虚」の作品の中に「実」を見出すことは可能だが、CLANNADのような、「虚」に「虚」を重ねた作品に「実」を見出すのは事実上不可能である。その二重の「虚構」に無理矢理「表現」を捻じ込もうとすると、作り手が伝えたかったことが歪曲し、それは結局「現実を見ろ」になってしまう。

路上生活者に直面する二人の女の子(現実及び虚構の二人)について上述したが、取った行動が絶対的に正しいのは、「現実」の女の子じゃなくて、「空想上」の女の子だ。これは大変重要なことで、何故なら、「“虚構”が“現実”に勝っている」からだ。「現実」は矛盾に満ち溢れていて、おかしなことが沢山起こるので、「登場人物」の方が人間として正しい行動をしている場合が多くある。CLANNADで敷衍すると、古河家のような温かい家族を見せられて、「家族っていいよな」みたいについ思ってしまう。だが、「現実」は違うのだ。

親が離婚したり、実子を捨てたり、子を虐待し、それが原因で子が死んでしまったりする。逆に子供は、深夜リストカットをしていたり、親に「死ね」とか言ってしまったりする。俺は物語では永遠の仔、ドキュメンタリーでは夜回り先生等が好きなので、こういった問題に関心があるのだが、それはさて置き、親から見放された子や、ACが、「現実」には無視出来ない程数多く存在する。それが避けられない「実」であり、「家族」をテーマにしたかったら、こういった問題から背を向けてはならない。

上述してきた事柄を纏めて、恐らく「一般人」であろうレビュアーは、「現実を見ろ」と書いた。だから決して、オタクがニートな訳でもないし、ちゃんと働いているし、社会不適合者な訳でもない。でも、CLANNADはオタクが絶賛するような、作品であることも又、決して無い。「娯楽」に「娯楽」を重ねれば潔さがあるが、作り手の「表現」が見え隠れする中途半端な作品であるからだ。

俺は今まで、オタク達は「虚」の中に「実」を見出すために作品をプレイしている(見ている)と思っていた。CLANNADの中にある家族的なテーマを見て、それに唯感動するだけで終わるのではなく、現実に繋げているんだと思っていた。でも、昨今のオタクを見ているとそうではない。

CLANNADをプレイして家族的なテーマに触れて、笑ったり泣いたりするけれど、それは一日、長くて1週間で終わってしまう儚い感動だ。それを「感動」と呼べるのかも怪しい。安い涙を流した後で、明日からは「虚構」とは別世界の、所謂「現実」を生きる。作品の「感動」が現実に全く還元されていないのだ。



「月曜日が襲ってくる」みたいなスレが2ちゃんねるにあったけど、あれが典型的で、現実で良いことがないから、オタク的なものに「依存」し、「逃避」しているだけだ。それを庵野秀明は夏エヴァで批判した訳だが、1997年当時よりも、もっと加速しているように見える。

日本は無宗教(もしくは多神教)だと言われている反面で、ゲームやアニメ、漫画の熱心なファン(フリーク)は信者と呼ばれているが、あれは実に的を射ている。宗教は辛い「現実」に対し、神による救済を説くから、隆盛する。キリスト教で言うと、唯一神ヤハウェを信じ、バプテスマして神に祈っていれば、死後永遠の命を得られるみたいな。だが、宗教は「依存的」であると屡批判される。それが、オタクにもそのまま当て嵌まるのだ。

日常の些事を解決できないから、「超越神」を持ち出す代わりに、「作品」にどっぷり浸かって、気持ちよくなっている。よって、作品の中だけで完結する「セカイ」を求め、「辛い“現実”から逃れて“二次元”に浸ってるのに、“現実”に引き戻そうとする作品」を拒絶し、「虚を以てして実を見せる」ような作品を見ても、「虚構」のみを消費し、「現実」に繋がる内容は一切眼中に置かない。制作者もそれを肌で感じているので、「虚」に「虚」を重ねる「娯楽」作品ばかりが増える。全てが病んでしまっている、唯の「現実ストレス解消作品」、「理想作品」ばかりが増える。そこには、「虚構」と「現実」の繋がりが完全に途絶えてしまっているのだ。

もちろん、そういう作品はあって良いし、沢山あるべきだ。だが、「CLANNADは唯の娯楽作品ではない」。この事実を書きたいがために、今まで延々と述べてきた。

CLANNADは、端的に書けば、「プレイして感動して泣いた後に、親孝行したくなるような作品」だ。だが、果たしてオタク達は、プレイした後親孝行したのかと言うと、俺はしていないと思う。学生であれば、夕御飯作るとか洗い物するとか靴磨くとか、社会人であれば、久しぶりに顔見せるとか金送るとか、麻枝准はそういうことを意図して作った「筈だ」。家族とは、生まれたときから誰でも持っているものだけど、普段は近すぎて大切だと言うことに「気づかない」。それに「気づかせてくれる」作品がCLANNADであり、だからこそ泣けるのだが、その「気づき」をオタク側は拒否し、一方作品側は所詮綺麗事で終わってしまっているため、作品に内包する「気づき」が上手く機能せず、不発に終わってしまっているのだ。

その2へ