2008年03月24日 02:02
冬期開始アニメ一ヤバいアニメ、シゴフミが終了した。シゴフミと言う作品を評価する際に、俺は今まで「死の虚構化」、「死の日常化」、「死の連鎖反応」等、様々なキーワードを挙げてきた。
後追い自殺推奨アニメ■シゴフミ4話
シゴフミは「自殺」か「他殺」をすることでしか、問題解決には至らないと言うメッセージを発し続けてきたからだ。
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解離性同一性障害(多重人格)とは、ある「異常な体験」に恐怖することよって、自己の防衛本能から新たなる人格を作り出し、その人格に「異常な体験」を代行してもらう(擦り付ける)ことによって、自身は清廉潔白でいられると言う、一見矛盾した「護身」行為である。特に、幼い頃に(性的)虐待を受けた経験を持つ「女性」に多い病気であることは、広く知られている。
文歌がフミカを否定すると言うことは、文歌とフミカの「融合」ではなく、文歌によるフミカからの「卒業」であり、それは、文歌とフミカのアイデンティティを表す銃で、フミカを撃ち殺すと言うものだった。自殺(障害からの逃走)か他殺(障害の排除)によってしか、人間は救済され得ないのか。シゴフミは、11話までその問題を提起し、11話までその答えは、「yes」だった。
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11話ラストで、文歌は、フミカから「卒業」すると同時に、足枷となっていたキラメキからの「解放」も果たそうとする。自「死」は「未来の断絶」を意味するが、「生」きていくことは「過去の断絶」をすることだと文歌は開悟する。
さて、11話ラストで銃を後ろ手に持ったまま話す文歌を見て、畏怖の念を抱いた人は多いだろう。まるで、別人格が乗り移ったかのような錯覚を抱き、その錯覚は、「文歌がフミカを殺し、“卒業”を果たした」ために起こった「豹変」ではないかと言う疑念を、僕達私達に抱かせる。
シゴフミには、「解離性同一性障害」と共に物語の根幹を成すテーマがある。上述した「豹変」である。シゴフミで描かれる「豹変」は、第一話のラストで美少女明日奈が、ロケットボーイ翔太を殺害するシーンが代表的だが、そのような「ひぐらしのなく頃に的豹変」だけではなく、12話の終盤の、文歌とフミカの喧嘩も又、「豹変」だ。それは、抑圧されていた感情の発露でもあり、偽りの自分から脱皮して本来の自分になるための変態でもある。
寓意アニメシゴフミにおける、佐藤竜雄の基本的なメッセージはこうだ。
「皆狂った社会の中で、抑圧されちゃってるんだよ。だから、虐待、離婚、いじめ、リンチ、自殺、他殺等の極端な行動に出るんだよ。ちゃんと本音で語り合えばそんなことにはならないんだよ。後は、外でパーッと遊ぶことも大事だね」
上記は余りにも杜撰なので、12話を例にとって補足していくと、(1)「狂った社会」とは、「報道の自由」や「知る権利」を盾にして、プライバシーを侵害するマスコミや、コミュニケーション手段として、他人の秘密を話題のネタにしたり、笑い物にする生徒達のことである。(2)「本音で語り合う」とは、終盤の、文歌とフミカの喧嘩のことで、「遊びが大事」とは、その喧嘩内での発言を基にしている。
11話でフミカは、自らが死ぬことが、文歌を幸せにできる方法だとして、死を願望する。その結果、銃が発砲され、フミカは消える。残された文歌は学校に通い始めるが、「狂った学校」、「狂った親」によるノイローゼから逃走し、唯一安心できる「箱庭」へと回帰する。
11話ラストで鳴り響いた発砲の真実が挿入されるが、この発砲と、フミカの消滅に直接的な意味は無い。何故なら、文歌がフミカを必要とする限り、フミカは何度でも現れるからだ。
閑話休題、文歌とフミカの会話を考えてみると、一見二人の人物が相対する二つの意見で衝突し合っているように見えるが、その実そうではない。二人は同一人物による別人格なので、一見ばらばらなことを切望しているように見えても、最終的には一致するのだ。「友達」、及び「生」への絶え間無い渇望は、両者に共通するものだった。唯、二人共素直じゃなかっただけだ。
このように、文歌とフミカの口論は二人だけの特別なものではなく、僕達私達が普段行っているものだと言うことが分かる。自問自答と呼ばれるものだ。望むこと、悩み苦しむこと、それ即ち自問自答である。
シゴフミのラストの口論は、新世紀エヴァンゲリオンで、碇シンジが内なる「もう一人の自分」と電車の中で会話をするシーンと酷似している。両者の葛藤は、本来なら永遠に終結を見せない。何故なら、文歌とフミカや、二人のシンジは、同一の自分であり、どちらも自分の本音だからだ。それは、人間が生来備えている「本能」と「理性」の対決に決着をつけるような、無謀で無駄な争いであるため、この相反する自己矛盾は永遠に続いていく。だが、シゴフミは半ば反則技と呼べるような超展開で、強引に物語が「収束」していった。
そして、二人が泣くことによって訪れる、都合が良く、意味不明なハッピーエンド(?)。ここまでどん底に突き落とすと、合理的に這い上がらせるのは至難の業かもしれないが、それにしても強引過ぎる。シゴフミで描かれた様々なダークサイドを、力技を使って一見解決したように見せかけてはいるが、どの登場人物も何一つ解決していない。文歌は、父が拘留され、母からは見放されたままで、「お友達」は頼りにならないから、写メを撮られ続ける。夏香は、恋敵である文歌(フミカ)に嫉妬して生きていく。要は、友達の千川を失ったままだ。他の登場人物達も、自殺した者は蘇らず、殺された者も同様に帰っては来ない、壊れた関係は元には戻らず、過去のトラウマからは永遠に逃れられない。問題だけを投げっ放しにして、その解決策を描いていないのだ。
だが、それでも頑張ってシゴフミに描かれている解答を探ってみると、それは、「本音を出して語り合えば閉塞感から脱出でき、視野が広がるから写メ撮られても全然気にしなくなるよ」と言う、ぶっ飛んだ解決法だった。つまり、世界が狂って見えるのは自分が成長していないからで、自己が成長しさえすれば世界が本来持っている素晴らしさに気づけるのだ、としている。仏教の「悟りの境地」じゃあるまいし、そんな訳あるかよと思うと共に、宇野常寛が好きそうなアニメだなと感じた。
8話と同様に12話も、作られた安易なハッピーエンドでしか無かった。
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最後に、高評価なものから順に、S、A、B、C、D、Eと分けられた「私的な」ランキングでは、シゴフミはDランクに当たる。ちなみに、Dランクとは、「つまらない作品群」である。
ネタバレ満載の文章をここまで読んで頂いているので、いないとは思うが、これからシゴフミ見ようと思っている方は、その時間を銀魂に使えば、凄く幸せな気分になれるよとアドバイスを送らせて頂きたい。
後追い自殺推奨アニメ■シゴフミ4話
シゴフミは「自殺」か「他殺」をすることでしか、問題解決には至らないと言うメッセージを発し続けてきたからだ。
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配達人は本来不老不死の肉体を備えているが、現実世界で生きている文歌の別人格であるところのフミカは、例外として歳を取る。それに加えて、死人ではないフミカは、やはり例外として「死ねる」。その方法は、文歌がフミカを否定することだと、フミカは言う。「死の虚構化」、「死の日常化」、「死の連鎖反応」を、シゴフミを届けることで見てきたフミカが、最後に「死の連鎖反応」で「死ぬ」と言う結末は、当然の帰結とも言える。僕はフミちゃんのもう一つの人格。だから、フミちゃんが僕を否定すれば、それが僕の死になる
解離性同一性障害(多重人格)とは、ある「異常な体験」に恐怖することよって、自己の防衛本能から新たなる人格を作り出し、その人格に「異常な体験」を代行してもらう(擦り付ける)ことによって、自身は清廉潔白でいられると言う、一見矛盾した「護身」行為である。特に、幼い頃に(性的)虐待を受けた経験を持つ「女性」に多い病気であることは、広く知られている。
文歌がフミカを否定すると言うことは、文歌とフミカの「融合」ではなく、文歌によるフミカからの「卒業」であり、それは、文歌とフミカのアイデンティティを表す銃で、フミカを撃ち殺すと言うものだった。自殺(障害からの逃走)か他殺(障害の排除)によってしか、人間は救済され得ないのか。シゴフミは、11話までその問題を提起し、11話までその答えは、「yes」だった。
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11話ラストで、文歌は、フミカから「卒業」すると同時に、足枷となっていたキラメキからの「解放」も果たそうとする。自「死」は「未来の断絶」を意味するが、「生」きていくことは「過去の断絶」をすることだと文歌は開悟する。
さて、11話ラストで銃を後ろ手に持ったまま話す文歌を見て、畏怖の念を抱いた人は多いだろう。まるで、別人格が乗り移ったかのような錯覚を抱き、その錯覚は、「文歌がフミカを殺し、“卒業”を果たした」ために起こった「豹変」ではないかと言う疑念を、僕達私達に抱かせる。
シゴフミには、「解離性同一性障害」と共に物語の根幹を成すテーマがある。上述した「豹変」である。シゴフミで描かれる「豹変」は、第一話のラストで美少女明日奈が、ロケットボーイ翔太を殺害するシーンが代表的だが、そのような「ひぐらしのなく頃に的豹変」だけではなく、12話の終盤の、文歌とフミカの喧嘩も又、「豹変」だ。それは、抑圧されていた感情の発露でもあり、偽りの自分から脱皮して本来の自分になるための変態でもある。
寓意アニメシゴフミにおける、佐藤竜雄の基本的なメッセージはこうだ。
「皆狂った社会の中で、抑圧されちゃってるんだよ。だから、虐待、離婚、いじめ、リンチ、自殺、他殺等の極端な行動に出るんだよ。ちゃんと本音で語り合えばそんなことにはならないんだよ。後は、外でパーッと遊ぶことも大事だね」
上記は余りにも杜撰なので、12話を例にとって補足していくと、(1)「狂った社会」とは、「報道の自由」や「知る権利」を盾にして、プライバシーを侵害するマスコミや、コミュニケーション手段として、他人の秘密を話題のネタにしたり、笑い物にする生徒達のことである。(2)「本音で語り合う」とは、終盤の、文歌とフミカの喧嘩のことで、「遊びが大事」とは、その喧嘩内での発言を基にしている。
11話でフミカは、自らが死ぬことが、文歌を幸せにできる方法だとして、死を願望する。その結果、銃が発砲され、フミカは消える。残された文歌は学校に通い始めるが、「狂った学校」、「狂った親」によるノイローゼから逃走し、唯一安心できる「箱庭」へと回帰する。
…「私はこの箱庭から出ることは出来ない」、「私は“一人”で生きていくことは出来ない」。「過去の断絶」を果たせなかったこと、又、これからも永久に果たせないと言う絶望から、文歌は銃を蟀谷に向ける。その思考、その行為が、消えたフミカを再び呼び戻してしまう。馬鹿みたい。大嫌いな場所なのに。結局…
11話ラストで鳴り響いた発砲の真実が挿入されるが、この発砲と、フミカの消滅に直接的な意味は無い。何故なら、文歌がフミカを必要とする限り、フミカは何度でも現れるからだ。
完全に「自立」するか、フミカに匹敵するくらいの「友達」を得るか、そのどちらかを達成しない限り、文歌が消えることは無い。だが、「自立」も、「友達」も、文歌には出来なかった。実際、要と夏香は事が終わった後に遅れて登場してきただけで、何の役にも立っていない。8話で友達の契りを結んだ筈だが、要と夏香は文歌(フミカ)を助けることが出来なかった。俺が8話のエントリで指摘した通り、上辺だけの「お友達ごっこ」であったことが露呈されたのだ。僕はフミちゃんの弱さ、甘えだから。結局変わらないんだ。フミちゃんが自分で撃たないと
閑話休題、文歌とフミカの会話を考えてみると、一見二人の人物が相対する二つの意見で衝突し合っているように見えるが、その実そうではない。二人は同一人物による別人格なので、一見ばらばらなことを切望しているように見えても、最終的には一致するのだ。「友達」、及び「生」への絶え間無い渇望は、両者に共通するものだった。唯、二人共素直じゃなかっただけだ。
このように、文歌とフミカの口論は二人だけの特別なものではなく、僕達私達が普段行っているものだと言うことが分かる。自問自答と呼ばれるものだ。望むこと、悩み苦しむこと、それ即ち自問自答である。
シゴフミのラストの口論は、新世紀エヴァンゲリオンで、碇シンジが内なる「もう一人の自分」と電車の中で会話をするシーンと酷似している。両者の葛藤は、本来なら永遠に終結を見せない。何故なら、文歌とフミカや、二人のシンジは、同一の自分であり、どちらも自分の本音だからだ。それは、人間が生来備えている「本能」と「理性」の対決に決着をつけるような、無謀で無駄な争いであるため、この相反する自己矛盾は永遠に続いていく。だが、シゴフミは半ば反則技と呼べるような超展開で、強引に物語が「収束」していった。
この二人(一人)の発言は、「箱庭」から出て、「広い世界」への「旅立ち」を意味するが、それと同時に、何時までも「アニメ」なんて見てなくて、「外」出ろよソト、と言う、佐藤竜雄の終わってしまったメッセージが含まれている。佐藤竜雄が二人に仮託して言わせたことは、「普通の女の子の幸せ」であり、それは、僕達私達オタクの感性とは対極にある。もし、文歌とフミカの発言の中に、「アニメ」や「ゲーム」や「漫画」が含まれていたら話は変わったであろうが、実際はそうではなく、「人とのコミュニケーション」や、「外の世界」に力点がある。学校行って、バイトして、メールして、メイクして、彼氏作って、デートして、文化祭で出店やって、人前で演技して、ライブで歌って、打ち上げで盛り上がると言う、「普通の幸せ」を佐藤竜雄は推奨し、インドアでアニメを見ているのは、ゲームをしているのは、キラメキ邸と言う「箱庭」で生きた文歌と同じであり、世間知らず、井の中の蛙に他ならないと言っているのだ。それは、夏エヴァで庵野秀明がオタク達に提言したことと、全く同じである。フミカ「そうだよ。僕だって友達が欲しかった、バスケもやりたかった、家族も、学校も、アルバイトだって。制服着て、毎朝通いたかった、お弁当を作って」
文歌「私だって、友達とカラオケ行きたかった!」
フミカ「すき焼き!」
文歌「アイスとデート!」
フミカ「メール交換!」
文歌「文化祭!」
フミカ「エプロンして、焼きそばを作るんだ!」
文歌「お芝居出て、ライブやって、打ち上げ!」
この台詞の考察や、シゴフミ全話を視聴しても、「死後文」と「遺書」との決定的な差別化は出来ていなかったように感じる。物語の根幹にあり、タイトルにもなった存在だが、最後まで中途半端感が否めなかった。フミカ「ありえたかもしれない未来。シゴフミも同じだ」
文歌「どういうこと?」
フミカ「本当なら出せなかった手紙」
そして、二人が泣くことによって訪れる、都合が良く、意味不明なハッピーエンド(?)。ここまでどん底に突き落とすと、合理的に這い上がらせるのは至難の業かもしれないが、それにしても強引過ぎる。シゴフミで描かれた様々なダークサイドを、力技を使って一見解決したように見せかけてはいるが、どの登場人物も何一つ解決していない。文歌は、父が拘留され、母からは見放されたままで、「お友達」は頼りにならないから、写メを撮られ続ける。夏香は、恋敵である文歌(フミカ)に嫉妬して生きていく。要は、友達の千川を失ったままだ。他の登場人物達も、自殺した者は蘇らず、殺された者も同様に帰っては来ない、壊れた関係は元には戻らず、過去のトラウマからは永遠に逃れられない。問題だけを投げっ放しにして、その解決策を描いていないのだ。
だが、それでも頑張ってシゴフミに描かれている解答を探ってみると、それは、「本音を出して語り合えば閉塞感から脱出でき、視野が広がるから写メ撮られても全然気にしなくなるよ」と言う、ぶっ飛んだ解決法だった。つまり、世界が狂って見えるのは自分が成長していないからで、自己が成長しさえすれば世界が本来持っている素晴らしさに気づけるのだ、としている。仏教の「悟りの境地」じゃあるまいし、そんな訳あるかよと思うと共に、宇野常寛が好きそうなアニメだなと感じた。
8話と同様に12話も、作られた安易なハッピーエンドでしか無かった。
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最後に、高評価なものから順に、S、A、B、C、D、Eと分けられた「私的な」ランキングでは、シゴフミはDランクに当たる。ちなみに、Dランクとは、「つまらない作品群」である。
ネタバレ満載の文章をここまで読んで頂いているので、いないとは思うが、これからシゴフミ見ようと思っている方は、その時間を銀魂に使えば、凄く幸せな気分になれるよとアドバイスを送らせて頂きたい。
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