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2008年03月23日 03:00

恋に破れた愛子と乃絵をラストに映した後、「あなたが好きなのは私じゃない」と言う衝撃的な予告で幕を閉じたtrue tears10話。「あなたが好きなのは私じゃない」と言う言葉に秘められた、「あなた」と「私」とは、一体誰なのだろうか。その答えが、true tears11話にあった。



「元気のいい女友達、欲しくない?その娘と友達になれば、もれなくコーラと今川焼きが付いてくるけど」
「俺…」
「もう一度、友達からやってみよ。最初からセーターは無理だったんだよ。もっと、簡単な奴から始めなきゃ、駄目だったんだよ。あたし達」
「でも、いつかセーター編んでもらえるように俺、頑張るよ」
「あたしも、それまでに編み物の腕、磨いとく」

11話で特筆すべき事項は、何と言っても愛ちゃん!近くにいて声が届く範囲にいる二人が、敢えて電話で話しているシーンは、どっかで見たドラマか映画の二番煎じ元い換骨奪胎だったり、10話の愛子からは想像が付かない程唐突な告白だったりするけれど、そんなことは大して問題ではない。俺が、true tearsの最初の記事から書いてきた、「気づき」を、11話でようやく愛子は手にすることが出来た。余りにも俺の望み通りの展開になったことにかなり驚いているので、「“愛”ちゃんは真実の“愛”に気づいた!」とか勢いで書いてしまっても、どうか許して欲しい。

唐突な展開と前述したが、この愛子と野伏の新たな「始まり」を見た後で、10話の愛子と野伏の「終わり」を見ると、大変感慨深い。野伏と別れることによって野伏の「束縛」から「解放」され、自分の「足枷」となっていた眞一郎からも「卒業」して、全てを清算した愛子は、11話で初めて本当の意味での「自分の意思」で行動した。その、初めて自分の意思で決めたことが、野伏と一緒に新しい道を歩いていくことだった。「終わり」は、同時に「始まり」でもあったのだ。

本編ではきちんと描き込めていないが、恐らく愛子は「気づき」を得たのだろう。紆余曲折を経ながらも、「背伸び」していた二人から、「等身大」の二人で共に歩いていけば良かったこと、自分を一途に好きでいてくれた野伏となら、それが出来ることを愛子は「気づいた」。

とても美しく、心温まるシーンで、やっぱり二人はお似合いだと感じた。このシーンでカタルシスを得たのは、俺だけではないだろう。愛ちゃん、ごめん!愛ちゃんのことを散々悪く書いてきたけど、俺は誤解してたよ。愛ちゃんは凄く良い女さ!



11話の中盤で比呂美の口から発せられる言葉は、11話のサブタイトルにもなっている、「あなたが好きなのは私じゃない」だった。「あなた」とは「純」のことで、「私」とは「比呂美」のことだ。

純にとっては自身の内面を抉り出された気分だっただろうが、僕達私達は純の行動は全て乃絵のためであることを知っている。だから、この発言はしっくりくるし、あのシーンで比呂美がこの台詞を言うことに、何の違和感も持たない。唯一つ思うことがあるとすれば、「意味深な予告をやり、且つサブタイトルにもした台詞を、こんな言われて当然の人物に言ったのか」と言うオチに対する、不満や脱力感である。僕達私達、少なくとも俺が予想していたことは、「あなた=眞一郎」が好きなのは「私=比呂美」じゃないと、「比呂美が眞一郎に」言うシーンだった。だが、実際には何の変哲もない、終わってしまった関係を改めて清算するために発した、単なる別れの言葉であり、それ以上でもそれ以下でもない。

あのシーンを見ているときはそう思った。だが、直後のシーンを見て考え方が変わった。

純は、乃絵が夜になっても帰ってこないことを心配し、比呂美に電話を掛ける。比呂美から眞一郎に電話を掛けてもらうためである。その電話を受けた後、眞一郎に掛ける前に、比呂美の不安に満ちた顔がアップで映され、そこに静止した時間が流れる。果たして比呂美は眞一郎に電話を掛ける。戸外でしんしんと降っている雪と同様に、比呂美の声には静寂が含まれていた。その比呂美の報告を聞き、眞一郎は直ぐ様電話を切り、駆け出していく。切られた電話を凝視する比呂美の表情からは、嫉妬と憎悪が読み取れるのだった。

この一連のシーンから、比呂美は、眞一郎の心の奥底に眠る「乃絵への感情」に勘付いていることが分かる。その感情は、比呂美にとって、長年掛けてやっと手にした幸せを崩そうとする不吉で邪魔な存在である。それを排除したいと思う心とは裏腹に、一方では、「眞一郎が好きなのは、本当は私ではなく乃絵なのではないか」と言う、確信染みた予感も持ち合わせている。「私は眞一郎と何時までも一緒にいたい」と思うのと同じくらい強く、「それは眞一郎にとって幸せなことではないんじゃないか」と思っているのだ。上述した、「あなたが好きなのは私じゃない」と言う言葉は、正しく今の比呂美の胸の内を物語っている。

つまり、額面通りに受け取れば、あの台詞は「比呂美が純に向けて言った」ものであったが、実は二つの意味を包含していて、もう一つは、「比呂美が眞一郎に向けて言った」もの、もしくは、「比呂美が比呂美の中の眞一郎に向けて言った」ものである。このように考えると、10話の予告を見て感じた強烈な泥沼感は、一見見当違いに思えるが、その実的を射ていることが分かる。



雷轟丸は本当は最初から自分は飛べないって知ってるんだよ

9話で眞一郎はこのように発言し、乃絵による雷轟丸信仰と、眞一郎信仰を否定する。そして、眞一郎が喝破した雷轟丸の惰弱が、「雷轟丸とじべたの物語」にそのまま反映されることになる。「雷轟丸とじべたの物語」のラストはこうだ。

鶏としての最初の飛翔、そして、その失敗による栄光は、じべたのものでした。雷轟丸はただ、臆病な鶏達の中の、ただの一羽にしか過ぎませんでした。終わり

この物語の著者である眞一郎は、以下のように自評する。

こんなバッドエンド、誰が読むんだよ



(1)「雷轟丸とじべたの物語」に登場するじべたは、飛べない鶏と言う生き物でありながら、羽ばたこうとした代償によって、自滅する。(2)そのじべたを、安全な場所に居ながら嘲りを含んだ目で雷轟丸は見ているが、じべたのような輝きは永遠に雷轟丸に齎されることは無かった。

「雷轟丸とじべたの物語」は、超越と内在の物語である。安全や日常から逸脱し、リスクと引き換えに自らを一段階上へ引き上げる(超越)か、体が死なない代わりに、欲望を押し込めることで自らを殺していく(内在)か。「雷轟丸とじべたの物語」は、肉体が滅ぶか滅ばないかの違いがあるだけで、結局両者に齎されるのは「死」しかない。じべたは超越し、「死んだ」。雷轟丸は内在し、やはり「死んだ」。自由を目指して死ぬか、生きながら死ぬか、唯それだけなのだ。

さて、「true tears」の登場人物で、「雷轟丸」と「じべた」は誰だろうか。

乃絵は、眞一郎を雷轟丸の代替物として「育ててきた」が、やがて手に負えなくなっていく。何故なら、乃絵の心の中には眞一郎への恋愛感情が芽生えつつあり、眞一郎の心の中には比呂美への決意が涵養されていたからだ。乃絵と眞一郎に関しては既述した通りなので、そちらを参照されたい。

話を進めると、リンク先の記事にも書いた通り、「眞一郎は雷轟丸ではない」ことが9話で明らかになっている。「雷轟丸とじべたの物語」に描かれているように、飛べる筈の雷轟丸は実は飛べなかったが、眞一郎は飛べる。では、眞一郎はじべたなのか。その問いには現段階では大変答えにくいので、保留とさせて頂きたい。

迂遠して述べていくと、true tearsと言うアニメの中で俺が最も興味深く、尚且つ大変面白く見ているキャラクターは石動乃絵である。彼女は面白い。最初の記事では「ズレ」ていると書いたが、話が進むにつれて、その「ズレ」が段々と修復されていき、僕達私達が何とか理解できるキャラクターになっていった。それは、上述した「眞一郎への恋愛感情」が要因だ。恋愛感情によって、自己をコントロール出来なくなると言う新たに発生した「ズレ」が、乃絵が本来持ち合わせている「ズレ」を相殺してくれるのだ。かくして乃絵は、普通の恋する女の子になり、晴れて奇抜な行動は無くなったが、10話で眞一郎の許から「卒業」することによって、乃絵の「ズレ」が再度懸隔していく。その行き着く先が、11話のラストである。

乃絵は自身の人生哲学を語った後、じべたを鶏小屋から連れ出す。じべたを「飛ばせてあげる」ためである。乃絵の語る「哲学」と、じべたの「飛翔」は、両者共、内に「超越」を含んでいる。

ここで重要なこととして、乃絵の話から分かるように、眞一郎が見た(眞一郎が“雷轟丸とじべたの物語”で描いた)「じべた」像と、乃絵が見た「じべた」像は違う。上述した通り、眞一郎が見た「じべた」は「超越」した存在であるのに対し、乃絵は「じべた」を「内在」した存在であると見做しているのだ。

やっぱり私、お前の気持ちは、分からないわ。この地上には、苦しいことが、辛いことがたくさんあるわ。飛びたい、全てから逃れて、自由に羽ばたきたい。そう願った方が、きっと、楽なのよ、じべた。じべた、私が、飛ばせてあげる

このように、乃絵は、「内在」しているじべたを「超越」させようとしている。

更にこの台詞から自明なことは、乃絵は自らが「超越した存在」となることによって、地べたにへばり付いているじべたを、「飛ばせてあげよう」としていることだ。「雷轟丸とじべたの物語」と図式は全く同じであり、「超越者」であるところの「乃絵=じべた」が、「内在者」であるところの、「雷轟丸=じべた」を「動かしている」。じべたの「栄光」が、「内在」している雷轟丸の心を激しく揺さぶるのと同じように、乃絵の「両手」が、「内在」しているじべたを無理矢理に羽ばたかせる。

愛子は野伏、比呂美は眞一郎がいるけれど、3人のヒロインの中で唯一人だけ独りぼっちな乃絵。その乃絵の起こす「超越」に対し、眞一郎は又しても振り回されている。11話のラストシーンは、物語の序盤、乃絵が雷轟丸の餌を眞一郎に与えていた頃、眞一郎がコントロール可能だった頃に回帰したかのような、そんな錯覚を与える。

だが、眞一郎も様々な紆余曲折を経て、充分に成長している筈だ。12話で、「飛びたいと願う乃絵」に対し、「飛べる眞一郎」はどのように接するのだろうか。

最後に、「雷轟丸とじべたの物語」での「じべた」が乃絵だとすると、「雷轟丸」は比呂美である。「超越」と「内在」の物語は、この二人の間にも、垣間見ることが出来る。果たして、「乃絵と比呂美」は、「じべたと雷轟丸」のように、暗澹たる道を進んでいくのだろうか。
by.  ...2008年09月01日 06:11

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