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2008年03月14日 18:57

朋也と秋生が渚の記憶の出所を探っている途中、早苗の注意が入り、慌てて秋生がダンボール箱を片付けるシーンで、その積み方の不安定さを強調するかのように、カメラがダンボール箱をアップで映す。乱暴にダンボール箱を積んだ結果が、渚が秋生達の過去を知るというラストに繋がる訳だが、そのような伏線すらも小細工と感じてしまう程、21話は冗長で、退屈だった。



俺は、アニメ版CLANNADのシリーズ構成が破綻しているとして、シリーズ構成及び脚本の志茂文彦を断罪してきたが、まさか、最終回手前の21話で、それを指摘しなければならないことになるとは思いもしなかった。常識で考えれば、物語がラストに向かうと共にクライマックスに達するものだが、21話は減速している。22話に演劇本番をやりたいがために、無理矢理引き伸ばした感じだ。冒頭の発声練習のシーンは、何故舞台に立たない裏方含めて皆で発声練習をしているのか、意味不明でさえある。

それでも少し考察すると、あのシーンは演劇部員全員の「仲間意識」を描いていて、その「仲間意識」を、アニメ版CLANNADでは徹底して描いている。だが、次回予告を見る限り、最終話では、「夢、目標」の達成を「家族」のために犠牲にして、「方向転換」することの正否を問うような内容に持って行こうとしている。それは、原作CLANNADの渚ルートの主題でもあるので、ゲームをアニメにし、ブレイクダウンする際に当然入れるべき内容である。

だが、京都アニメーションの作るCLANNADは原作CLANNADと違って、「渚、朋也、春原」以外にも演劇部員が存在していて、「皆で一致団結して危機を乗り越えようぜ」的な展開になっているため、結局どっちをやりたいのか、分からなくなってくる。軸がぶれて見えるのだ。

そして、演劇部室にそのオールスターキャストは結集する訳だが、どう見てもこの空間は異常である。

原作CLANNADはギャルゲーなので、主人公朋也の一人称視点で終始物語が展開する訳だが、画面内にアップで登場するキャラクターは常に一人である。よって、何時も周りに女の子をはべらせているようなギャルゲーと言えども、画面内では一対一の関係が描かれるため、その異常な状況がある程度緩和される。原作CLANNADで危殆に瀕したのが、ことみルート中盤の朋也一人(男)に対して、ことみ、渚、杏、椋(女)というハーレム状態が持続する場面だった。そこに違和感を感じつつも、ことみルートをクリアできたのは、偏に他のルートに比べて、ことみルートが卓抜したルートであったからだ。

さて、アニメ版CLANNADはと言うと、アニメなので一人称視点ではなく全体を俯瞰することと、前述したような脚本の冗長さも相俟って、朋也と春原の二人(男)に対して、「渚、杏、椋、ことみ、仁科、杉坂、名前の無い緑髪の女子、更にここに智代が途中参加する」と言う、女だらけの異常事態がより鮮明になる。その比率は、何と男2:女8!CLANNADは決して男の登場人物が少ない作品ではない筈なのに、「仲間意識」を描くことの弊害が、このように表面化する。

その弊害に加えて、志茂文彦が途中参加した智代に、

うん、やっぱりお前はいい子だな。お前でよかった

等と言わせることによって、上っ面の仲間意識が崩壊し、負け犬達の修羅場と化す。「家族」をテーマにしたCLANNADで、ここまで「恋愛」を引っ張り、所詮演劇部は皆朋也に振られた(相手にされなかった)女達が結集しているだけの空間だということを、態々視聴者に再認識させる志茂文彦は、相当な皮肉屋なのだと感じる。

かように、大きな家族がやりたいのだろうが、そこに小さな家族(“朋也、渚”と、“渚、秋生、早苗”)の存在も同時に強調するため、軸がぶれ、瓦解していく。どっちをやりたいのかはっきりさせるか、二つを上手く同居させたような22話を、俺は京都アニメーションに期待したい。



朋也「親馬鹿だなぁ」
秋生「てめえだって自分に娘ができればこうならぁ」
朋也「絶対ならねぇよ」
渚「岡崎さんなると思います。お父さんに似てますから」

渚のこの発言を聞いて秋生は憤慨するが、20話のエントリにも書いたように、朋也と秋生は非常に似ている。ある日「気づき」を得て娘を愛することも、娘が死の淵に突き落とされたときに取る行動も、全く同じである。しかし、20話のCLANNADのエントリで書いた途端に、21話で渚の「似ている」発言があったことには、正直喫驚した。

前後するが、豆知識として書くと、「マ・メール・ロア」の選曲は麻枝准によるものではなく、メグメルを歌うeufoniusのボーカルriyaによるものである。

> それにしても、riyaさんがクラシック畑の方だというのは存じていましたが、
> 麻枝さんがクラシックを知らないというのは意外でした。
> 「CLANNAD」でラヴェルの「マ・メール・ロア」が使われたときには、
> 「うわっ、ハマりすぎ!!」と思ったのですが(笑)
> あれは、別のスタッフの方のアイデアだったんですかね〜。
riyaさんです(爆
そのriyaさんがですね、ここの日記読んで、クラシックを紹介してくれたんですよ
それがすごいよかった!
クラシックと呼んでいいのかな、あれは…
ミニマルっぽいピアノソロ?
> 短い曲の集まりなので、聴きやすいかと思います(そういうのを先に薦めなさい>俺)。
ラヴェル、このCDは上でクセナキスに触れられているかたもオススメしてくれてました
これは聴かないわけにはいかないですね

不定期スタッフ日誌2004年(呪怨)2004/07/30■リスペクト麻枝准
ちなみに作中で流れたのは、モーリス・ラヴェルの組曲「マ・メール・ロア」の中でも、「親指小僧」という曲だ。



最後に、K・ワークスさんの回答文を読んででは、主旨がずれるので考察できなかった、Aさんのメールを考えてみたいと思う。

風子や春原の登場は時々現れるコントを見ているようで面白いし、(大体二人の登場は一人芝居で一人で始めて一人で終わっている)
単純に楽しめる反面、時々朋也や渚にとって意味のある助言であったりするところがいい。
それに私にとって朋也と渚のゆっくりとした時間の流れの方が普通ではなく
その流れをくずす春原や風子の登場は気持ちがいい。
行動や言動はともかくそのテンポは、ある意味現実にもどしてくれるような気がする。

K・ワークスさんの回答文を読んで
Aさんは、風子の「ズレ」が、Aさんを現実に戻してくれる作用を持っていると書している。そして、風子がズレているのではなく、逆に「朋也と渚こそがズレている」、と書く。

この意見は俺の考えと全く正反対で、だからこそ多大な興味を抱いた訳だが、俺はtrue tearsのエントリで解説したように「風子がズレていて」、その風子のズレを提示し、発生したズレを修復するための役割であり、又、虚構に対する現実にいる僕達私達に近い存在としての、春原や朋也がいるのだと書いた。

Aさんが何故このような発想に至ったかは本人ではないので詳述できないが、そのことを考えるヒントとして、Aさんは「ゆっくりとした時間の流れ方が普通ではない」と書いている。これに関しては、声優の中原麻衣がインタビューで、「渚のテンポはゆったりとした時間が流れる娘だ」と演技指導を受けていると語っているので、Aさんによる渚の解釈は正しく、又、中原麻衣の演技も成功していると言える。一方、朋也のテンポはゆっくりしているとは思えず、早口ではないがハキハキとしっかりした口調で喋り、考え方も割と確固たるものを持っているように見える。その朋也まで含めて、「ゆっくりとした時間の流れ方」の中にいるように、Aさんが見出したのは何故だろうか。

それは、やはり渚の影響だと考えるのが一番正しいだろう。渚のゆったりとしたペースに合わせて喋っていると、普通に喋っているのに恰も「渚ワールド」に引き摺り込まれるかのようにして、朋也までゆっくり喋っているように聞こえてしまうのだ。

そう考えると、これは朋也以外の誰にでも、渚と会話をすると起こり得る現象なのかもしれない。そこで、Aさんの意図を踏まえると、その渚ワールドに侵食されないどころか、見事に崩してくれる人物が二人いて、それが春原と風子なのだ。

春原は前述したように、僕達私達の感覚にとても近く、だからこそ突っ込み役が務まっている。その春原が、渚ワールドという「ズレ」に対して免疫を持ち、更にそのズレを修復できたとしても、おかしくはないだろう。

だが、ズレている風子が、同じくズレている渚が作り出す「渚ワールド」を打ち壊す役割も同時に担っていると言うのは大変興味深い。その行為は、毒を以て毒を制すのと同義だからだ。「渚ワールド」に勝る「ヒトデワールド」という固有結界を、風子は会得していることになる。このように、風子というキャラクターは考えれば考える程謎に満ち、だからこそ大変興味深い。


私が思うにクラナドは、最後の団子大家族の歌にもあるように個々の家族だけではなく、
周りにいるみんなも合わせてすべて家族としたいということで大家族としていると思うが、
その中心が朋也と渚であるので二人の家族が主に描かれているようだ。

俺は大きな意味での「家族」を、上記で「仲間意識」と言葉を変えて表した。この解釈は、原作CLANNADを語る上でも、アニメ版CLANNADを語る上でも、恐ろしく正しい解釈である。唯、前述したように、アニメ版CLANNADは大きな家族、「大家族」というテーマを、中途半端に提示している感が否めない。

原作CLANNADも大きな家族を扱っている。アフターストーリーで示されるように、大きな家族とは、朋也達が住む「町」である。朋也達の住む町では様々な奇跡が起こり、その奇跡の結晶として、光の玉が形成される。その光の玉によって、最後に大きな奇跡が起こる。それは、「町全体」=「大家族」で渚を救うことである。だが、「町」=「家族」はアフターストーリーによってようやく明示されたような概念で、渚ルートの段階では「大きな家族」はそこまで意味を持っていなかったように思う。だからこそ、渚ルートで終わるアニメ版CLANNADは、中途半端で、結局何を伝えたかったのか、何がやりたかったのか今一視聴者には伝わらない。

俺は、CLANNADの精髄はアフターストーリーにあると考えている程、CLANNADに関しては原作至上主義者で、アフターストーリーに入る直前の22話で終了するアニメ版CLANNADが残念でならない。アフターストーリーをやらずして、CLANNADと言えるのか。極論だが、そのように思っている。



CLANNADが「家族」をテーマにした作品だと言うことに異を唱える人はいないと思うが、ここで敢えて問いを立てておきたい。

「では、どこからどこまでが家族なのか」

上述した「大きな家族の物語としてのCLANNAD」は、K・ワークスさんやAさんの主張を基にした解釈だが、実は俺は充分に納得していない。大きな家族を設定してしまうと、では、何処から何処までが家族なのかと言う問題が発生してしまうからだ。

俺は上記で暫定的に「町」を「家族」であるとしたが、それも怪しいもので、「町」に限定することもなく、「演劇部室」でもいいし、「学校」でもいいし、「日本」でもいいし、「世界」でもいいし、「宇宙」でもいい。だが、この考えだと際限がなく、結果、「家族」と「家族でないもの」という二項対立、善悪二元論に陥り易い。又、「家族の中」なのに、いじめがあったり、差別があったり、失業者がいたりして、格差が生じているのは明らかにおかしい。東浩紀の言う、「CLANNADは回帰性の物語」と言う発言と「大きな家族」説を併せるともっとおかしくなり、「外は危ないからお家にいましょうね」というメッセージを発していると言う、危険な物語になってしまう。

だからこそ俺は、一人の人間の「人生」としてのCLANNADをここで再提示したい。「CLANNADは人生」と言う言葉は名言だと感じるし、とてつもなく分かり易く、それでいてCLANNADの全てを包括しているように感じる。つまり、「大きな家族」という概念を確かにCLANNADは内包し得るが、俺はやはり「人生」もしくは「小さな家族」(親と子)の物語だと思っている。

だって、人間はそんなに多くのものを守れる程強くは無いから。時には、自分だけで精一杯になることもある。「大きな家族」なんて、幻想に過ぎない。それこそ、CLANNADを唯の虚構作品で終わらせてしまう元凶だと感じる。自分の守れる人だけを守っていく。人間はそんなものだと思うし、とどのつまりそれは、「小さな家族」だろう。

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