2008年03月09日 02:12
「ボクって凄いでしょ?」的な、マスターベーション臭がプンプンする長文書いて悦に入ってる、井の中の蛙でお山の大将でもあるK・ワークスだから仕様が無いか。※アニメーター・プログラマー・フリーライター・フリーター・ニートの社会的地位向上私的推進委員会事務局
※アニメ批評私的推進委員会事務局━みんなでもっともっとアニメを「批評」 してみようじゃないか。
※アニメーションを愛憎する全ての人々のコメントに誠実対応・マジレスいたします。(新・アニメ・批評)
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⇒K・ワークスさんへ
あゆ級内のCLANNADに関する記事
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本気でその「予行演習」に参加できなかったから今回風子が出てきたと思ってんの?前回の挿話である第19話を思い出してみてください。安っぽいシンセサイザーに内蔵されている効果音である「戦慄」を使って、春原くんが演劇部室内を文字通りに演劇空間に変容させて、はからずもその場にいた登場人物たちを役者に変容させ、「演技」させてしまうという素晴らしいシーンがありましたよね。そこでは、主要な登場人物である美少女達の演劇(演技)の「予行演習」が描写されたわけです。けれども、残念だったのはその「予行演習」に物語の前半を引っ張った伊吹風子さんが参加できなかったことでしたね。彼女はそのシーンで描写されなかった。そのようなわけで、今回の挿話において彼女に出番が回ってくるわけです。
(『CLANNAD -クラナド-』(第20話)の批評と解説、あるいは演技と記憶とベースボール。■新・アニメ・批評)
おいおい、その「予行演習」に参加できなかったのは風子だけじゃないぞ。その場にいたけど参加してなかったことみと椋も仲間に入れてやってくれよ。お前の趣味で二人は眼中に無しかよ、妄想も大概にしろよ。
他にも、有紀寧、美佐枝、古河秋生、早苗、公子、芽衣、芳野祐介等、枚挙に暇がないが、風子だけ特例で後で入れてあげるんじゃなくて、他の皆も入れてやってくれよ。それとも、「主要な登場人物である美少女達」以外は仲間外れなのか?だったら、男で脇役の春原が何で「予行演習」の中心人物なんだよ?
余談だが、CLANNADに「主要な」登場人物っているのかな。俺はCLANNADという作品に登場する人物達は、誇張ではなく皆が主要な登場人物だと感じている。実際、原作もそういう作りになっていて、「一見」脇役でも必ずルートが存在し、攻略できた。
話を戻すと、幸村俊夫もその場にいたけど「予行演習」に参加してなかった一人だ。「美少女達」の演劇には好々爺の幸村は仲間外れか?原作には幸村ルートもきちんと用意されているんだがな。
ていうか、そもそも「予行演習」って何?あれは果たして「予行演習」だったの?K・ワークス的には、その場にいた登場人物「達」の演技であり演習らしいけど、その「予行演習」とやらの直後のことみの発言を聞いたら即間違いだってことが分かる筈なんだけどね。ことみの発言を以下に引用する。
ハイ、「予行演習」はことみの一言によって簡単に瓦解した。春原の「一人芝居」なんだよ、勝手に「予行演習」に仕立て上げてんじゃねえよ。でも、さっきの一人芝居面白かったの
「廃屋の中の少女と機械の子供」の物語と、渚の話す「過去の記憶」は果たして本当に同じ話なんだろうか?さて、「廃屋の中の少女と機械の子供」という組み合わせだけでも、十分に衝撃的なイメージに見えるのですけれども、やはり重要なのは、渚さんの口から、その過去の記憶が言語化されて語られるとはいえ、これまでの全ての挿話を見回してみるとあきらかなように、この「過去の記憶」は複数の挿話にまたがって分断されており、完全に再現されることはありえませんよね。つまり、あくまでも「断片としての記憶」としてしか描写されないということです。そしてさらには、この「過去の記憶」が朋也くんとも共有されうるものであるという「仄めかし」が繰り返し描写されておりますが、そのように形成される「集合的記憶」という観点からも、やはり、「断片としての記憶」が「断片としての記憶」であることに変わりはないのです。
渚は20話冒頭で
と言い、中盤では世界にたった一人残された、女の子の話です
と演劇部室で話している。原作プレイ済みの人達は百も承知だけど、実はこれで「世界にたった一人残された、女の子の話」は終了してるんだよね。渚の言うとおり、「以上」で終わりなんだよ。人形を作った後の話は一切していない。だから、「廃屋の中の少女と機械の子供」の一連の断片と、渚の話す「過去の記憶」は違う。時間軸で書くと、「過去の記憶」→「廃屋の中の少女と機械の子供」となる。その女の子は世界に一人っきりだったんです。とても寂しく、とても辛かったんです。そこで、友達を作ることにしたんです。それは、ガラクタを組み上げた一体の人形です。人形は女の子の思いに応えて、動き始めました。こうして、女の子は寂しくなくなりました。以上です
だから、「過去の記憶」が朋也と半ば共有されているという説は正しいかもしれないが、「断片としての記憶」とかは全く違う。大外れ、残念。図式で示すと、「廃屋の中の少女と機械の子供」=「断片としての記憶」≠「過去の記憶」=「世界にたった一人残された、女の子の話」となる。
つーか、K・ワークスって原作プレイしてないよね?何か原作プレイしてたら絶対に書かないような、恥ずかしい間違いがふんだんに散らばってるんだけど。もしマジで未プレイだったら、宇野常寛のレイプファンタジー並みに更生させるのが難しいな、考えが凝り固まっているから。
まあ、原作プレイした方々にも色々な解釈はあると思うから、K・ワークスの意向を汲むと、「廃屋の中の少女と機械の子供」の話は、実は渚が昔体験した「過去の記憶」で、20話で描かれるように朋也達にその過去の話をするんだけど、何か良く分かんないがその話が複数に分断されちゃってるって解釈な訳?だったら異存は無いんだけど。もちろん、俺の解釈とは違うけどね。
もうこれに関しては、野球野球って馬鹿の一つ覚えみたいに、「一生言ってろ」。今回の挿話における野球のイメージを見ていただければ、さすがに多くの方の賛同を得られるものだと信じております。作中登場人物である春原くんの口から「逃げる」という台詞が洩れ、しかも今回の挿話においても「BASE BALL」という文字が読み取れるポスターが確実に春原君の寮の部屋内のシーンにおいて描写されております。このイメージが「接近と逃走の折り返し地点」という主題として機能しておることは、春原くんの部屋を起点にして、「古河家」を往復する朋也くんを見ればあきらかなのではないでしょうか。
予想するんなら、もうちょっとまともな予想してよ。「当然の帰結」、「今後、確実に」とか書いておいて、後で間違ってたらいくらでも言い訳できるように注釈を付け加えるとか、どんだけ及び腰なんだよ。お前はインチキ占い師か。どうせK・ワークスのことだから「野球」(笑)みたいに何でも「逃走」にしちゃうんでしょ、勘弁してよ。まあ、これに関しては言質を取れたからいいや。当然の帰結ですが、今後、確実に「逃走」が表象されるでしょう。もちろん「逃走」という語は「別離」や「離反」や「独立」というイメージの変奏(ヴァリエーション)でもあるわけですから、「逃走」という語を狭い語義のなかに囲い込んではいけませんよ。そのように申しますのも、アニメにおいて重要なのは、あくまでも視聴覚的な映像と音声の「イメージ」、「光学的な表象」、「記号」、「描写」であります。
「音楽」はアニメにおいて重要じゃないんだ。俺は音楽を多少は齧っている人間だから、普通の人より倍増しで気になったんだけど。K・ワークスにとっては、「音楽」よりも「音声」なんだね。いや、アニメーターの仰ることは参考になるなあ。そして、K・ワークスみたいなこじつけと拘泥で全ての物事を説明付ける評論が素晴らしい評論という訳だね!アニメにおいて重要なのは、あくまでも視聴覚的な映像と音声の「イメージ」、「光学的な表象」、「記号」、「描写」であります。アニメは哲学や文学ではないのだから、「紋切り型の解釈学的読解」と「言葉の網で縛り上げること」はできるだけ避けるべきだと思う次第なのでございます。
御教授ありがとう、お前は何様だよって思うけどね。アニメーターの分際で客に注文付けてんじゃねえよ。肩書きが裏目に出たね。
CLANNAD=家族がテーマじゃなかったらCLANNADは一体何をテーマにしてるんだよ。本気でK・ワークスの頭を心配するし、そんなこと書いてる奴はK・ワークスしかいないよ。何か、他の人と違ったことを言っている俺ってカッコイイみたいな、高校生の脳味噌になってない?「家族なるもの」についてですけれども、「家族」の定義は古代ギリシャにおける「家・政」の問題、さらには原始時代の「火の共有」など膨大な説があります。それだけではなく演劇やオペラ、映画、アニメなどのさまざまな表象文化形態において、歴史的にさまざまな「家族」の形態が表象されてきました。ですから、制作者や原作者の発言を鵜呑みにして「クラナド=家族がテーマ」という思い込みを抱いてしまい、そこから問いを進めようとしないのは、危険な気がいたします。やはり自分自身の感覚器官を使って、作品と画面に立ち向かわなければならないのではないでしょうか。たとえば、野球チームや演劇集団やギャングや盗賊、軍隊や民衆、旅人たちを「家族」として表象した映画やアニメは無数に存在するでしょう?。そのようなわけで、重要なことは、たとえ「家族(の絆)」がテーマであるとしても、それがいかなる「家族」なのか、それが「どのように」描写されているのか、ということなのでございます。
俺はどうやったらK・ワークスにCLANNADが「家族」の物語だって説明できるのか、どんなに考えても分からない。だって、CLANNADは「家族」をテーマにした作品だって一目瞭然なのに、それを否定しているから。
それでも頑張って説明していくと、良く「CLANNADは人生」って言われる。「人生」という言葉は漠然としていて、人それぞれいろんな人生があるけど、やはり最終的には古来からやってきたように、結婚するかしないかは分からないが男と女は一緒になるし、子供を作ったりもする。それは、家族を作るっていうことと同義だ。その「人生」という言葉を何故態々オタク達はCLANNADに対して使うのか、それを少しでもいいから考えてみてくれよ。
もう一つ。CLANNADの原作を未プレイだろうからこういう発想になるんだろうが、これからアニメ版CLANNADも必然的にアフターストーリーに入る。所謂各ルート攻略のギャルゲー風味だった前半と違って、これからの後半で描かれるのは紛れも無く「家族」の物語だ。くれぐれも、赤恥を掻かないようにね。
更にもう一つ。上記は原作CLANNADの話であって、アニメ版CLANNADは違うぜ!という反論を潰しておくと、何でアニメ版CLANNADのエンディングテーマが、原作CLANNADのエンディングテーマを飾っていた影二つじゃなくてだんご大家族なんだと思う?答えは簡単で、影二つは歌詞どころかタイトルだけで分かるように、恋愛の歌なんだ。それを、だんご大家族に変えたということは、京アニが分かりやすく「家族」の話をやるんだっていう決意の表明でしょう、どう見ても。だから、CLANNADは宇野常寛の言う恋愛至上主義の作品でも何でもない、唯只管に「家族」を追求した作品だ。又は「家族」を「人生」と言い換えてもいい。
最後に。
こうまで書くなら、K・ワークスはCLANNADに描かれているものは何だと思ってんの?お手本を見せてくれ。まさか野球とは言わないだろうな。やはり自分自身の感覚器官を使って、作品と画面に立ち向かわなければならないのではないでしょうか。たとえば、野球チームや演劇集団やギャングや盗賊、軍隊や民衆、旅人たちを「家族」として表象した映画やアニメは無数に存在するでしょう?。そのようなわけで、重要なことは、たとえ「家族(の絆)」がテーマであるとしても、それがいかなる「家族」なのか、それが「どのように」描写されているのか、ということなのでございます。
まず、家族で無ければ何をテーマにしているのか。次に、家族をテーマにしているのであれば、K・ワークス的には、「それがいかなる“家族”なのか、それが“どのように”描写されているのか」についてどう考えているのか教えてくれ。
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以上、誠実対応・マジレスよろしく。
※アニメーションを愛憎する全ての人々のコメントに誠実対応・マジレスいたします。
いや、一度マジレスしたんだけど、禁止ワードで弾かれたんだよ。ごめんな。
俺は原作は未プレイだし、現在進行形のテレビアニメについてしかわからない。
あゆ級さんの「クラナド」に関するエントリを全部読ませてもらったけれど、とても丁寧に語っているな、という印象を受けたよ。このひとはメディアを問わずとてもこの作品を大事にしているんだなって、そんな風に感じたよ。
確かに俺の論旨と論理の展開は、普通に読むとわかりにくいよね。それは自覚してる。
ただ俺は「クラナド」を貶めたいとか、「クラナド」のファンを馬鹿にするとか、そういう思惑は、おそらくある程度わかってくれているとは思うけれど、全くないよ。
俺は自分のエントリで直接に誰かを名指して非難したり、ましてや「クラナド」を馬鹿にするようなことを書いたことはない。それどころか褒めまくっているふしさえもある。もしも俺が「クラナド」に大バッシングをしていれば当然、話はかわってくるだろうな。けれど、そういう事実はない。
だから、俺とあゆ級さんとではきっと論じ方や着眼点が違うだけなんだよ。お互いに違う立場から、「こういう見方もあるよ」、「俺は、あたしはこういう風に見たんだ」って無償で公に提示する、それでいいんじゃないのかな。駄目だろうか。
立場とか肩書きとか、そういうもののバイアスってのはもちろんあると思う。けれど俺はそれを根拠にして、ある作品やある主張に対して否定的な判断を下さないようにいつも意識しているよ。それはアニメの制作に関わる人間としてのコンプライアンスってやつだよな。
「クラナド」についての具体的な見解だけど、時間がある時、気が向いた時で構わないから、箇条書きで質問状のようなものを作ってくれれば真摯に答えるよ(Q100とかは勘弁してくれな)。
本来はこの場でばーっと応えるべきなんだろうけれど、作品を見る観点がちがうこと、質問・疑問・人格攻撃が辛辣すぎて冷静には答えにくいこと、労働の都合により、今すぐには答えられないこと(適当でよければ哲学者の名前と概念を羅列して煙に巻くけど、そういうわけにもいかんでしょうから…)、などの事情でむつかしそうな質問や疑義には即興で応えにくいのよ。
今日はこのあたりで堪忍してくださいな。それでは、失礼いたしました。
k・ワークスさんに同意できるところもある。
たしかに「長ったらしい言葉で結局何を言っているのか本人ですら良く分かってなさそうな文章」を批評し、反論しても何一つ意味が無い(笑)
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